ジャーナリスト・ノンフィクション作家 柳原三佳オフィシャルサイトHP

ジャーナリスト・ノンフィクション作家 柳原三佳オフィシャルHP

変死体と向き合う法医学の第一人者、なぜ子ども向けの法医学書を書いたのか

法医学の目的は死因究明だけじゃない、生きている人を救うことも

2023.11.2(木)

JBpress記事はこちら

変死体と向き合う法医学の第一人者、なぜ子ども向けの法医学書を書いたのか

警察の依頼により、数々の変死体の死因糾明にあたっている千葉大学大学院医学研究院法医学教室の岩瀬博太郎教授は、これまでに何冊もの著書を出し、法医学ドラマやコミックの監修も務めるなど、この分野の第一人者である。その岩瀬教授が先月、子ども向けに法医学を解説した本を出版した。法医学の専門家といえば、変死体を解剖したり、悲惨な事件や事故の被害者の遺体と向き合ったりしなければならない立場にある。そのような仕事をなぜ子ども向けに解説しようと思い至ったのか。ジャーナリスト・柳原三佳氏が岩瀬教授に話を聞いた。(JBpress編集部)

法医学は「国家医学」

――10月10日、『親子でなっとく 事件をかいぼう! こども法医学』という本を出版されました。岩瀬先生をモデルにした「ドクターいわせ」と、畑で見つかった人骨の「ボーンくん」というキャラクターのかけ合いが面白く、楽しく読ませていただきました。

岩瀬博太郎氏(以下、岩瀬) ありがとうございます。

――子ども向けに読みやすく構成されていますが、かなり専門的な内容でもありますね。普段はうかがい知ることのできない法医学に関する基礎知識、日本と海外の制度の違いや歴史、また法医学者が事件解決に向け、日ごろどのような活動をしているのかなど、さまざまな事例を通して知ることができました。「もしも人間を2つに切ったら?」なんていう見出しにはドキッとしましたが、子ども向けの法医学本は国内でも初めての試みではないでしょうか。

岩瀬 そうかもしれませんね。子どもには少々難しいと思いますが、法医学に関心のある親がこの本を手にとり、子どもたちと一緒に読んでもらえればうれしいなと思っています。

岩瀬博太郎教授と仕事場でもある千葉大学の解剖室(筆者撮影)

岩瀬博太郎教授と仕事場でもある千葉大学の解剖室(筆者撮影)

――「まえがき」を読んだだけでも初めて知ることがいろいろあって、とても勉強になりました。たとえば、日本における「法医学」の創始者は、幕末生まれの片山國嘉(かたやまくによし/1855~1931)という医師だったそうですね。

岩瀬 そうなんです。片山國嘉はまず、「医学」を、「各人医学」と「国家医学」の2つに大別しました。内科や外科といった、いわゆる「臨床医学」は、患者一人ひとりを診断することから「各人医学」と呼ぶのに対して、法医学や公衆衛生学は、社会を相手にする医学なので、「国家医学」と名付けたのです。

――なるほど、法医学は「国家医学」に含まれるのですね。

岩瀬 はい。我々法医学者の仕事は、死因究明はもちろんですが、その先には、生きている人の権利擁護、つまり、「国や社会をよりよくする」という大きな目的あるのです。

法医学の対象は「死体」だけじゃない

イメージ写真(ESB Professional/Shutterstock.com)

イメージ写真(ESB Professional/Shutterstock.com)

――法医学と言えば、まず、事件や事故で亡くなった人の「解剖」をイメージする人が多いと思います。

岩瀬 おそらく、テレビドラマの影響が大きいのでしょうね。たしかに、私たち法医学者は、毎日のように死体を解剖し、死因究明に取り組んでいますが、実際には傷害事件や殺人未遂事件の被害者など、「生きている人」とも向き合っているんです。

――第5章「ドクターいわせの法医学事件簿」では、たくさんの事件や事故が紹介されていますが、その中に「臨床法医学」によって真実が明らかになった事案も登場していましたね。背中に酷い火傷を負っていたという5歳の女の子のケースは印象的でした。

岩瀬 千葉大学法医学教室の臨床法医外来では、実際に子どものケガに対する診察や鑑定をたびたび行っています。ただ、私たちの仕事は守秘義務があり、事例をそのまま紹介するわけにはいかないので、本の中では実例をモディファイして取り上げています。

――ケガをした子どもたちは、どういう経緯で法医学教室の臨床法医外来へ運ばれてくるのですか。

岩瀬 最初は救急外来に搬送されます。その後、診察した医師などが児童相談所に通告します。そして、児童相談所が法医学的な鑑定をおこなってほしいと、法医学教室に依頼し、実際に子どもを連れて行く、という流れです。

児童虐待、医療ネグレクトの実態を見抜くことも仕事

――臨床法医外来には、児童相談所経由で鑑定の依頼が来るわけですね。

岩瀬 児童相談所のほか、警察からも直接依頼が来ることがよくありますね。

――法医学的なお立場から診察されると、どのようなことがわかるのでしょうか。

岩瀬 身体に残るアザを詳しく調べれば、古いものと新しいものを見分けることができます。それらが混在している場合は、一度のケガではなく、日常的な暴力を受けていた証拠になります。

――なるほど、もし、保護者が「事故」だと嘘をついていても、「臨床法医学」の視点でしっかり鑑定できれば、真実を見抜くことができるのですね。

岩瀬 また、我々のメンバーである歯科法医学者は、子どもの歯も確認するのですが、虫歯が多い場合は保護者が日常的に歯磨きなどのケアをしていないこと、また必要な医療を受けさせていないことが疑われます。

――いわゆる「医療ネグレクト」ですね。

岩瀬 そうです。そこで我々は、そうした子どもの状態を詳細に調べ、そのうえで、虐待を受けていた可能性が高いという鑑定結果が出た場合は、児童相談所に報告します。そして、児童相談所はその結果を含めて総合的に判断したうえで、子どもを保護したり、警察に通報したりするという流れです。

――本の中では、警察が両親から話を聞いた結果、日常的な虐待をしていたことや、熱湯を意図的にかけたことを認めたことから両親が逮捕され、女の子はその後、児童福祉施設に保護されたとのことでした。命が奪われてしまう前に救済できるのは何より大切なことですね。

人手と設備不足に直面、脆弱な日本の法医学の現実

岩瀬 最近は、子どもだけでなく、老人への家庭内暴力や、配偶者や恋人など親密な関係にある人から振るわれる暴力など、さまざまなケースで鑑定を依頼されることが多くなってきました。とにかく、身体に残された傷を臨床法医学の視点でしっかりと診断することで、今、大変な状況の中で生きている人を救うことができ、また事実を証拠として残すことで、刑事裁判になったときに役立てられるのです。

――こうした取組みは、冤罪の防止という観点からも、非常に大切ですよね。

岩瀬 そのとおりです。例えば、紫色のアイシャドーを塗って写真を撮り、顔を殴られたと嘘の訴えをしてくるようなケースもありうるのですが、一方的にその話を信じてしまうと、冤罪を生むことになってしまいます。いずれも、法医学的にしっかりと診断して証拠として記録することが臨床法医学の大切な役割です。

――日本では臨床法医学が全国的に確立しているのでしょうか。

岩瀬 他大学の法医学教室でも臨床法医学を行っているところはありますが、一人の子どもを一人で診るのか、複数で診るのか、また、どこまで虐待と断定的に判断するのかといった点は標準化されていません。

――医療でセカンドオピニオンの必要性がうたわれているように、法医学の世界でも複数の目で判断する必要がありますよね。

岩瀬 はい。千葉大の特徴は、複数の法医学者で報告書を確認している点なのですが、現在、日本には法医学者が約150人しかおらず、そうした体制をつくりたくても、それ自体、難しいのが現状です。

――それは深刻な問題ですね。今から16年前、岩瀬先生と共著で『焼かれる前に語れ 司法解剖医が聴いた、哀しき「遺体の声」』という本を書かせていただきました。その後、あの本を読んで法医学を志したという複数の先生方と実際にお会いする機会があり、大変感銘を受けました。今回の本もそんなきっかけになればいいですね。

岩瀬 そうですね。法医学は安全な社会を維持し、それぞれの国民が等しく守られるために必須の学問領域なのですが、このまま人手不足が続けば、その権利すら守ることができなくなってしまいます。この本を手にした子どもたちが法医学について正しい理解を深め、将来、この道を志してくれることにつながれば大変ありがたいと思います。

――ありがとうございました。

●岩瀬博太郎
千葉大学大学院医学系研究員法医学教育センター長
東京大学大学院医学研究院法医学教室教授
1993年東京大学医学部医学科卒業