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【4歳次女毒殺】東大の法医学教授が「今回の事件は防げたかもしれない」と語る理由

2024.2.24(土)

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「薬毒物殺人がいくつも見逃されている」東大教授が警告する、日本の死因究明の「恐ろしい実態」

 昨年3月、東京都台東区の自宅で、次女(当時4歳)に抗精神病薬と不凍液を摂取させ殺害したとして、両親の細谷健一容疑者(43歳)、志保容疑者(37歳)が2月14日に逮捕、送検された。

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 その後の報道によれば、2018年に死亡した父親の姉(当時41)の臓器が医療機関に保管されていて、そこからも不凍液に含まれる有害物質「エチレングリコール」が検出されたという。つまり6年前のケースも殺人だった可能性があるにもかかわらず、ずっと見過ごされてきたかもしれないのだ。

 なぜ、6年前の不審死が今まで放置されてきたのか。東京大学と千葉大学の法医学教室で教授を務める法医学者の岩瀬博太郎氏が、日本の脆弱な死因究明制度について警鐘を鳴らす。

薬毒物の検査は「地道な作業」

 ――報道によると、亡くなった次女の体内からは、致死量に達する「オランザピン」が検出されたとあります。このオランザピンとは、どのような薬物なのでしょうか。

 岩瀬博太郎氏(以下、岩瀬):統合失調症などに処方される抗精神病薬です。通常、子どもにこの薬を処方することはありえないため、「これはおかしい」ということになり、警察は本格的な捜査を始めたのでしょう。

実際に解剖が行われている千葉大学の解剖室(筆者撮影)

実際に解剖が行われている千葉大学の解剖室(筆者撮影)

 ――報道によれば、家の中からエチレングリコールという有害物質も見つかったとされています。

 岩瀬:この薬品は不凍液などに含まれており、摂取すると人を死に至らしめる危険な薬剤です。エチレングリコールを飲まされた場合、腎臓にその代謝産物が蓄積されるので、それを検出するための検査を行なうなど、裏付けが行われたと思います。

 ――そんなに危険な物質ならばすぐに発見できそうなものですが、岩瀬先生は「ひょっとすると、検出できない可能性もあった」と指摘されています。なぜそうお考えなのでしょうか。

 岩瀬:薬毒物の検査というものは、一般の人がイメージしているよりもずっと地道な作業です。

 たとえば、東大の法医学教室では、司法解剖を行った際は全例において、ご遺体の血液や尿を質量分析器という精密機器にかけ、ルーチンとして必ず薬毒物検査をすることになっています。ただし、1回ですべての薬毒物が検出できるわけではありません。ひとつの設定で検出できるのは、せいぜい200から300種類にとどまります。

 実は、東大でルーチンとして行っているこの検査の対象に、エチレングリコールは含まれていないのです。一口に薬物と言っても、それぞれ分子量や性質が異なります。たとえば、水に溶けやすい、油に溶けやすい、低い温度で蒸発する、しない、といった性質によって、分析条件がまったく変わるんです。

 ですから、エチレングリコールを摂取した疑いがあるケースでは、それに適した設定の検査を行わないと検出できません。広い範囲の薬毒物を検査したい場合は、複数の設定で機械を動かして調べる必要があります。

見過ごされていたかもしれない

 ――今回の事件においても、もし最初の検査でオランザピンが検出されなければ、女の子の死因は特定できず、両親の逮捕まで至らなかったかもしれないということでしょうか。

 岩瀬:そうです。今回の件は、大学での薬毒物検査でオランザピンが検出されたのを発端にして、ドミノ倒し式に他の薬物を使用した疑いや過去の容疑まで浮上した、という図式でしょう。

実際に使用されている解剖器具(筆者撮影)

実際に使用されている解剖器具(筆者撮影)

 日本の大学の法医学教室では、20年ほど前までは検査代をもらわずに解剖していたので、その当時は薬物検査など十分にできていませんでした。2006年にようやく検査代が支払われるようになりました。そして、一部の法医学教室で、1台数千万円もする薬物検査のための機材を導入でき、本格的な薬物検査が実施されるようになりました。

 東大法医学教室で、本格的に薬物検査をルーチンの一環として実施するようになったのは、私が赴任した10年前からです。その意味では、日本において検査代が法医学教室に支払われるようになって本当によかったと思います。もし今回の事件がそれ以前に起こっていれば、最初の手がかりになったオランザピンすらも検出できなかったでしょう。

 ――警察も現場での検視時などに薬物検査を行っていますが、それでもわからないことがいろいろあるのでしょうか。

 岩瀬:警察が検視で使っているのは「簡易薬物検査キット」というもので、あくまでも睡眠薬などの濫用薬物や覚せい剤などをチェックするための簡易的なものなんです。

 使い方は市販の妊娠検査キットと同じで、尿などをスティック状の検査キットに浸透させ、色が出るか出ないかを見る検査です。でも、我々が使っている質量分析機つきの液体クロマトグラフやガスクロマトグラフ装置を用いた本格的な薬物検査と比較すると、極めて不正確で、いろいろな薬品を見逃す可能性があります。

 簡易薬物検査の結果を受けて、警察が「薬物はない」と判断した後に、我々が質量分析機にかけると危険な薬物が出る、なんてことは、もう日常茶飯事です。もし、警察の方で「事件性なし」と判断し、処理されてしまうと、重大な犯罪見逃しにつながることもあるので、普段から危険性は感じています。

6年前に見逃されていた不審死

 ――本件に関連して、6年前に急死したという健一容疑者の姉の死因についても、疑惑の目が注がれています。報道によれば、亡くなった姉の保管臓器からも、同じくエチレングリコールが見つかったそうです。

 岩瀬:おそらく今回の女の子の死亡事件を受けて、東京都監察医務院に保管されていた姉の腎臓標本をあわてて顕微鏡で見たら、エチレングリコールの沈着物があることがわかった、ということなのでしょう。

Photo by iStock(画像はイメージです)

Photo by iStock(画像はイメージです)

 ――姉が亡くなったとき、警察は東京都監察医務院に遺体を運んだものの、その時点では「事件性なし」と判断していたわけですね。

 岩瀬:その通りだと思いますが、それを根拠に監察医務院を攻めるのは酷でしょう。監察医務院というのはあくまでも「公衆衛生向上」を目的に、不自然死の死因を究明するために行政解剖を行う機関であり、そもそも、犯罪の発見は任務ではありません。

 一方、犯罪捜査を担う警察は6年前の姉の死を「事件性なし」と判断し、司法解剖や、裁判官の令状の必要がなく警察の判断で行える調査法解剖にまわさなかった。その責任は軽くないと思います。

 ――ある報道番組では、元警察官が6年前の姉の死について、「警察は6年前から犯罪性を疑っていたからこそ、臓器が保管されていた」というニュアンスの発言をしていましたが……。

 岩瀬:その可能性は極めて低いでしょう。結果からすれば、6年前の姉の検視は明らかに誤りだったといえます。

 たとえ現場に争ったような痕跡がなくても、血が流れていなくても、41歳の女性が突然亡くなっているのですから、死因がはっきりわからないのならば、事件性は否定できないはずなので、司法解剖、もしくは調査法解剖に回し、しっかりと薬毒物検査をすべきでした。

 ――つまり、このときにしっかりとした死因究明が行われていれば、今回起こった第二の犯罪は防げた可能性もあったのでしょうか。

 岩瀬:あくまでも一般論ですが、そういうことになります。とはいえ、個々の検視官や警察官が悪いのではありません。実は東京は、警察が犯罪性の有無を見極めるために実施する司法解剖と調査法解剖の実施率が、日本一低い地域なんです。

 このような環境ではどんなに優秀な警察官でも、犯罪を見逃して当たり前です。あくまでも、システムの問題なので、根本から改善しなければ、何も変わらないと考えています。

岩瀬氏によれば、このような見逃しが起こってしまうのは、そもそも「日本の死因究明制度に大きな問題点があるから」だという。後編記事『「薬毒物殺人がいくつも見逃されている」東大教授が警告する、日本の死因究明の「恐ろしい実態」』では、脆弱すぎる日本の死因究明システムの問題点について、より詳しく伺う。