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江戸末期、国中が震えたコレラの猛威を東国屈指の港湾都市・銚子はなぜ防げた

民衆を救ったのは正しい知識を根気強く説いた20歳代の若き医者の存在だった

2023.2.4(土)

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江戸末期、国中が震えたコレラの猛威を東国屈指の港湾都市・銚子はなぜ防げた

 国内で新型コロナウイルスの感染者が確認されてから間もなく3年。この間、私たちは第1波から第8波まで、感染拡大の波を幾度も経験し、東京オリンピックをはじめさまざまなイベントや行事の延期や中止を余儀なくされてきました。

 しかし、2023年に入って早々、大きな動きがありました。政府の対策本部は今年5月8日より、新型コロナの感染法上の位置づけを現在の「2類相当」から、季節性インフルエンザなどと同じ「5類」に移行することを決めたのです。

<新型コロナ 「5類」への移行 5月8日に 政府が方針決定 >(1月27日、NHK)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230127/k10013963141000.html

 一方、同じ日に、中国からはこんなニュースも入ってきました。

<新型コロナの感染が収まらない中国では棺が不足し、葬儀費用が高騰している>(1月27日、BUSINESS INSIDER JAPAN)https://www.businessinsider.jp/post-264826

 上記記事によれば、中国の農村部では棺が不足するほど死者が出て火葬場が混雑し、葬儀を待つ遺体が増えているというのです。そして、葬儀業界で働く人々は「ちょっとした財産を築いている」とも。

 中国では正確な死者数を発表していないようですが、真実はどこにあり、今後どうなっていくのでしょうか……。

 日本に住む私たちは、ただ国の方針に従っていくしかありません。

江戸時代の人々を恐怖に陥れたコレラ

 パンデミックが起こり、死者が急増すると、「棺が不足」「埋葬が追い付かない」といった事態がたびたび報じられますが、実は、幕末(1854年)の日本にコレラが上陸したときも同様に、江戸の町は大変な状況に陥りました。

 世界中を恐怖に陥れたコレラは、コレラ菌を含んだ水や食料を口に入れることで感染し、激しい下痢や嘔吐の症状が出ます。そして、脱水症状が進むと、2~3日で死に至ることから、当時は「3日コロリ」とも呼ばれていました。

 町人たちが住む長屋では、井戸や厠を共用していたため感染が一気に広まり、一つ屋根の下に何組もの家族が枕を並べて死んでいる状態だったようです。

 当時の瓦版などによれば、コレラによる死人を入れた棺は、大通りだけでなく、裏の小道にもずらりと並んでいる状態で、業者たちは寝る間も惜しんで棺を作っていたそうです。それでも全く足りず、仕方なく、小さな子どもの亡骸などは酒の空樽に納めていたという記録もあります。

 そんな中、ここぞとばかりに棺を高値で売る商売人もいたようです。

 新型コロナが出始めたときも、マスクや消毒液が一時不足し、法外な値段で取引されていたことがありましたが、今も昔も、そうした輩は存在するのですね。

「病の流行とめどがない」

 さて、医学が進歩している現代では、その病気を引き起こしている原因を突き止めることが可能ですが、電子顕微鏡も存在しない江戸時代は、この恐ろしい病の原因が何なのか、わかりませんでした。

 次々と人が死に、棺が山積みになっていく様子におびえながら途方に暮れた民衆の間では、半ばあきらめの心情を込め、こんな「ないものづくしの歌」が流行っていたようです。

「病の流行とめどがない」
「一時ころりであっけがない」
「誰でも死にたいものはない」
「医者の駆けつけ間に合わない」
「せわしいばかりで薬はない」
「八つ手を吊るさぬ家はない」
「にんにくいぶさぬ家はない」
「いわしの安売り買い手がない」
「亡者葬る地所がない」
「戒名つけるに文字がない」

 このとき、江戸でのコレラによる死者は10万人を超えていたと言われていますが、実数はつかめておらず、寺の住職たちからは、ひっきりなしに棺が運ばれてくるさまを見て、その何倍もの人が死んでいるはずだという悲痛な声も上がっていたようです。

 まさに、上記の「ないものづくしの歌」にもあるように、戒名をつけたくても使える文字が見当たらないほど、死者の数が爆発的に増えていたのです。

 ちょうど季節は真夏だったこともあり、埋葬を待つ遺体の臭気のひどさは耐えられないほどでした。そこで、どうすることもできず、品川沖まで船で棺を運び、海の中に次々と投げ入れて水葬にしたという話も伝わっています。

20歳代の若者が人々に示した「コレラ対策八か条」

 そんなとき、西洋医学を学んだ若き医師が、コレラの感染を食い止めるために懸命に闘い、「江戸の台所」と呼ばれていた銚子の町でほとんど死者を出さずに大きな成果を上げていたことをご存じでしょうか。

 その名も、関寛斎(1830~1912)。

 彼は、上総国山辺郡(現在の千葉県東金市)の農家に生まれました。18歳のとき、佐倉順天堂の門をたたいて佐藤泰然の門下に入り、オランダ仕込みの医学を身に付け、その後82歳で没するまで、多くの人の命を救ってきました。

軍服姿の関寛斎

軍服姿の関寛斎

 筆者は関寛斎という人物を取材する中で、彼が1854年当時、現代でも十分に通用する『コレラ予防対策八か条』を、銚子の民衆に向けていち早く発出し、広めていたことを知り、その冷静さに驚きました。

 以下がその八か条です。『コレラを防いだ男 関寛斎』(柳原三佳著/講談社)より抜粋して紹介します。

『コレラ予防対策八か条』

一、生水、生ものを口にしないように
一、水は必ず沸かして飲むこと
一、魚は加熱して食べること
一、食器や箸、布巾、手ぬぐい、口に入れるもの、頻繁に肌に触れるものは必ず熱い湯に付けてから使うこと
一、手をこまめに洗うこと
一、吐いたもの、下したものには決して触れないこと
一、厠などの周りに石灰をまくこと
一、体力をつけること

 いかがでしょうか? 感染症にかからないための対策が、実に具体的に示されています。

根拠ない噂や迷信を否定

 同時期、コレラが大流行していた江戸では、根拠のないさまざまな噂が飛び交っていました。「うなぎ、ねぎ、栗などは食べてはいけない」といった話がもっともらしく囁かれていたかと思うと、今度は、生魚、特に「イワシを食べたらすぐに死ぬ」という説も流されました。

 また、「魚を食べてはいけない」という噂が広まってからは、野菜や卵の値段が大幅に引き上げられ、その影響を受けた庶民はまともな食事をとることができなくなっていったのです。

 江戸の町は経済的にも大きな打撃を受け、庶民の経済もたちまち悪化していきました。商売が立ちゆかなくなって職を失った人々や、貧困に陥り、十分に食事をとることすらできない人々が町中にあふれかえっていたのです。

 そんな中、銚子で病院を任されていた寛斎は、

「イワシがいけないといっているのではない。むしろ火を通して食べることで体力がつくので、しっかり食べるように」

 と、栄養をとり、体力をつけることの大切さを教えたのです。

関寛斎が蘭医学を学んだ佐倉順天堂

関寛斎が蘭医学を学んだ佐倉順天堂

「江戸の台所」である銚子を感染からまもった関寛斎

 また、当時の庶民は疫病を祭りやまじないで追い払おうとしました。家族や近所の人たちが、手の施しようもなく次々と死んでいく……、その姿を目の当たりにしていた民衆には、ただひたすら神や仏に祈り、すがるしかなかったのでしょう。

 しかし、神輿を担いでも、太鼓や鐘を鳴らしても、豆をまいても、ヤツデをぶら下げて天狗の面で練り歩いても、この病は防げません。そのことを誰よりも知っていた寛斎は、神輿を担ぐよりもこの八か条を守ることがなによりの疫病退散につながるということを根気よく説き、民衆に浸透させていったのです。

 こうした的確で素早い対策によって、銚子ではコレラによる感染を水際で食い止めることができました。

 感染の疑いがある者が出た場合は、すみやかに隔離するという方針もとっていたため、江戸のように長屋に住む一家全員がコレラにかかるといった事態も起こらず、死者もほとんど出さなかったといいます。

 そこには、コレラによるパンデミックで弱り切った「江戸」という大都市を、「江戸の台所」である、当時第2の都市であった銚子が、後方から支援しなければならないという、強い使命感があったに違いありません。

 ちなみに、幕府がコレラから身を守るための「お触れ書き」を発したのは、関寛斎が『コレラ予防対策八か条』を出してから半月後のことでした。しかし、その内容には、西洋医学を学んできた医師たちから見れば、科学的に根拠のないものも含まれていたと言います。

 170年前の幕末に『コレラ予防対策八か条』を出し、銚子での感染を見事に食い止めた関寛斎。

 もし、彼が今生きていたら、新型コロナウイルスに翻弄されている現代の私たちに、どんな言葉をかけてくれるのでしょうか……。聞いてみたい気がします。

『コレラを防いだ男 関寛斎』(柳原三佳著、講談社)

『コレラを防いだ男 関寛斎』(柳原三佳著、講談社)