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等身大の遺影は色あせてしまったけれど…。小1女児交通事故死から31年、母は今

2024.4.9(火)

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等身大の遺影は色あせてしまったけれど…。小1女児交通事故死から31年、母は今

「この季節、黄色い帽子とランドセルの1年生を見ると、まるで昨日のことのように思い出しますね」

 静かな口調でそう語るのは、青森県むつ市に住む仲沢陽子さん(63)です。

「これは、娘が小学校に入学した日の写真です。ちょうどこのとき、私は3人目の子どもを出産したばかりだったんですが、入学式の支度をするため早めに退院させてもらって、髪を整えたり、服を着せたりしてやりました。入学式には夫が代わりに出席したのですが、本人はお母さんに来てもらいたかったようで、ちょっとご機嫌ななめでしたね」

1993年4月、小学校に入学した日の採希ちゃん(仲沢さん提供)

1993年4月、小学校に入学した日の採希ちゃん(仲沢さん提供)

 紺色のワンピースに赤いリボンの帽子、そして、背中には赤いランドセル。少し緊張した面持ちでカメラに目をやるのは、仲沢さんの長女・採希(さき)ちゃん(当時6)です。

 仲沢さんは遠い目をしながら、こう続けます。

「めんこかったですね。自慢の娘でした。なのに、まさか入学式から半年もたたないうちに、このランドセルを棺の中に入れることになるなんて……。31年経った今でも信じられません」

■自衛隊車両との衝突事故で長女死亡、次女重体

 事故が起こったのは1993年9月16日、午後5時頃のことでした

 この日、夕方5時を過ぎても採希ちゃんと次女(当時4)が帰宅しないため心配していた陽子さんのもとに、小学校の先生から「採希ちゃんと妹さんが交通事故に遭ったようです」という連絡が入りました。

「航空自衛隊大湊基地の大型バスと、採希と妹が乗っていた自転車が衝突して、2人とも大けがをしたらしいという知らせでした。いったい何が起こっているのかわからないまま、すぐに搬送先の病院に駆け付けました」(陽子さん)

 病院に到着すると、そこには信じがたい光景がありました。バスとの衝突で肋骨が折れて肺に突き刺さっていた採希ちゃんは、処置室で懸命の救命措置を受けていたのです。

「奥のストレッチャーに載せられた採希の小さな身体は、蘇生のための電気ショックを受けるたびに、30センチくらい飛び上がっていました。しばらくして医師から『お母さん、娘さんはもう、息をしていません。死んでいます』と言われました。それを聞いた私は、『死んでいるのなら、もう、これ以上は……』そう言って、電気ショックを止めてもらうしかありませんでした」(陽子さん)

 採希ちゃんの死因は、肺挫傷でした。

 一方、頭部に大きなダメージを受けていた次女は、頭蓋骨骨折、右前頭部脳挫傷、外傷性けいれん発作などの重傷を負っていました。CTの検査室から出てきたとき、その顔は土色で、呼びかけには応じなかったといいます。

 2学期が始まって間もなくの採希ちゃんの死。それを受け入れることができないまま、通夜、葬儀をとりおこなう一方で、陽子さんは脳挫傷で入院中の次女の病院にも通わなければなりませんでした。

「3月末に生まれたばかりの長男は、まだ生後5か月の赤ちゃんでした。どんなに辛くても、ミルクを与え、おむつを替えないといけません。でも、今思えば、あの子がいたから、私は生きていられたのかもしれない……、そう思っています」

事故に遭う直前の姉妹と陽子さん(仲沢さん提供)

事故に遭う直前の姉妹と陽子さん(仲沢さん提供)

■自衛隊(国)相手の交渉と裁判、自衛隊員だった夫への圧力も

 事故の相手は自衛隊の車両でした。そのことが、さらに陽子さんを苦しめることになりました。

 自衛隊の車両は「武器」と同様にみなされるため、一般の車両のように自賠責保険や任意保険には加入していません。そのため、通常の交通事故とは違って、過失割合や損害賠償の交渉はすべて国と直接のやり取りでした。

「出会い頭のような事故で、過失は双方にあるということでしたが、事故後はいろいろな嫌がらせがありました。実は、夫は自衛隊員だったんです。それもあって、自宅には匿名で『自衛隊から給料をもらっているのに裁判起こす気か』とか、『硫黄島に飛ばしてやる、出世はないぞ』といった、脅しのような手紙が届きました。あの頃は、夫も組織の中で相当辛かったと思います」

 その後、陽子さんは夫と離婚。女手ひとつで二人の子どもを育てることになりました。

 採希ちゃんと一緒に事故に遭った4歳の次女は、幸い一命を取りとめましたが、その後、さまざまな後遺障害が残り、苦しい日々を過ごしたといいます。

 しかし、陽子さんは決してあきらめませんでした。国を相手に訴えた裁判では事故と後遺障害の因果関係を認めさせ、事故から16年後、次女の損害に対する賠償を勝ち取ったのです。

 私は約20年前、この民事裁判の取材で陽子さんと知り合いました。後遺障害に苦しむ娘のために、母親として懸命に闘っていた彼女の姿、そしてその強さは、今も鮮明に焼き付いています。

■真新しいランドセルを棺に入れる悲しさ

 事故から31年目となった今年、私は青森県の仲沢さんの自宅を訪問しました。仏壇のすぐ横には、あの日、6歳で亡くなった採希ちゃんの等身大の写真パネルが当時のまま飾られていました。

 日本髪を結ったパネルの中の採希ちゃんは、華やかな振袖に身を包み、少し大人びた表情でこちらを見つめています。

 陽子さんは語ります。

「これは事故の前年、七五三のお祝いのときに撮った写真なんです。それを大きく引き伸ばしました。31年経った今はモノクロになってしまいましたが、もともとはカラーの綺麗な写真だったんですよ。でもね、写真はすっかり色あせてしまったけれど、どれだけ時間が流れようとも私の思いは変わりません。心の中の採希は、今もあの頃のままですね……」

仏壇の横に置かれた等身大の写真パネルを見つめる母親の仲沢陽子さん。もともとはカラー写真だったという(筆者撮影)

仏壇の横に置かれた等身大の写真パネルを見つめる母親の仲沢陽子さん。もともとはカラー写真だったという(筆者撮影)

 小学生の交通事故がニュースで報じられるたび、今でも心臓の鼓動が早まり、辛くてたまらなくなるという陽子さん。

「小学校に上がると子どもは行動範囲がぐっと広がるんですね。私自身も、事故現場の場所を聞いたときは、どうしてそんな離れた場所まで行っていたのかと、正直驚きました。そしてなぜ、あの日に限って妹と自転車に2人乗りをしていたのかと……。どうか気をつけてあげてください」

 時間を巻き戻すことはできません。でも、陽子さんは6歳のままの採希ちゃんとともに、どうか子どもたちがこれ以上悲しい交通事故に遭わないように、そして、6年間、ランドセルを背負って元気に学校に通えるようにと願い続けています。

七五三のとき、写真館で撮影した一枚。等身大のパネルはこの写真を引き伸ばして作った。棺の中にはランドセルと一緒に、この着物も入れたという(仲沢さん提供)

七五三のとき、写真館で撮影した一枚。等身大のパネルはこの写真を引き伸ばして作った。棺の中にはランドセルと一緒に、この着物も入れたという(仲沢さん提供)