我が子を抱くこともできず、妻は逝った… 出産目前の交通事故 帝王切開で生まれた子は今も意識不明
2025.8.18(月)
■事故から1時間半後、緊急の帝王切開で生まれた我が子
その写真が私のもとに送られてきたのは、7月末のことでした。
目を閉じてすやすや眠る、生後2か月のかわいい赤ちゃん。名前は、研谷日七未(とぎたにひなみ)ちゃんです。
でも、日七未ちゃんは、生まれてから一度も泣き声を上げたことがありません。目を開いたこともありません。小さな喉には管が通され、人工呼吸器がつけられています。医師からは「低酸素性虚血性脳症」と診断され、この先も意識が戻ることはなく、一生寝たきりの状態が続くと言われているそうです。
父親の研谷友太(とぎたにゆうだい)さん(33)は語ります。
「娘の日七未は、事故の衝撃で母体の意識が失われたまま、約1時間半後、緊急の帝王切開で生まれました。何とか命はつながりましたが、お腹の中で長時間酸素が届かなかったため、脳に大きなダメージを受け、せっかく生まれてきたのに、感情を表す手段も、自ら命を維持する力も失ってしまいました。あの事故さえなければ、母親の胸に優しく抱かれ、たくさんの人に祝福されながら幸せな人生を送るはずだったのに……、私たち家族の未来は、一瞬で、すべて奪われてしまいました」
初めての出産を目前に、交通事故で命を奪われた研谷沙也香さん(当時31)。人の痛みに寄り添える、優しい人柄だったと夫の友太さんは振り返る(遺族提供)
■単身赴任先に届いた、突然の知らせ
事故は2025年5月21日、愛知県一宮市の市道で発生しました。
以下は、本件を報じる翌朝の新聞記事です。
●『一宮で重体事故』
21日午後3時45分ごろ、一宮市木曽川町門間東島海の市道で、路上を歩いていた30代くらいの女性が後ろから来た軽乗用車にはねられた。女性は病院に搬送されたが、意識不明の重体。
一宮署は、自動車運転処罰法違反(過失傷害)の疑いで、車を運転していた同町門間角田、無職児野尚子容疑者(49)を現行犯逮捕した。署によると、容疑を認めている。現場は中央線のない道路。
(2025.05.22 『中日新聞』尾張版)
事故現場の状況(遺族提供)
上記写真を見てもわかる通り、加害者は住宅街の道路で左側を走行すべきところ、進路を逸脱させ、右側を歩いていた研谷沙也香さん(31)の後方から衝突。沙也香さんはその衝撃を受け、約15メートル先で倒れていたのです。歩行者にとっては避けることのできない事故でした。
事故現場。この道路の右側路側帯を奥へ向かって歩いているとき、後方から加害車が衝突。沙也香さんは約15メートル飛ばされた(遺族提供)
単身赴任先の広島で第一報を受けた友太さんは、当初、何が起こっているのか把握できなかったと言います。
「いつも通り業務に向き合っていた午後4時13分、突然、一宮西病院から私の携帯に着信があり、『今すぐ病院に来てください』と告げられました。詳細は一切知らされず、『早く来てほしい』と繰り返されるのみでしたので、とっさに、里帰り出産のために一宮市の実家に帰省している妻のお腹の子に何か起きたのではないかと思い、一刻も早く妻の元へ駆けつけたいという一心で、広島駅に向かいました」
途中、病院に電話をかけ、「せめて状況だけでも教えてほしい」と頼んだところ、「奥さんが交通事故に遭い、意識がない」とのこと。友太さんは取り急ぎその事実を義父に報告し、急いで上りの新幹線に乗り込みました。
■妻からの、最後のLINEメッセージ
「間もなく、義父から、『母体優先で、お腹の子は帝王切開によって取り出され、子どもはNICU(新生児集中治療室)のある一宮市民病院へ搬送された』との連絡が入りました。それを聞いたとき、言いようのない不安と深い悲しみが押し寄せました。あんなに楽しみにしていた初めての赤ちゃんが、なぜ、こんなかたちで……。それでも、とにかく二人とも助かってほしい、私が病院に着くまで、なんとか生きていてほしい、ただその願いだけを胸に、気が狂いそうな思いで新幹線の座席に身を沈めていました」
ふと、この日の昼頃、沙也香さんからLINEが届いていたことを思い出した友太さんは、携帯の画面を開きました。そこには、『昨日からすごい暑い、、、広島も暑いのかしら?』というメッセージが残されていました。
「私はちょうど仕事中で、妻のメッセージに返事を返すことができていませんでした。あのとき妻に、『暑い中、無理をして散歩に行かないようにね』とでも伝えていたら、こんなことにはならなかったかもしれない……、そう思うと悔しく、後悔しかありませんでした。私は、名古屋に向かう新幹線の中で、『さやか頑張れ!!』とLINEを送りました。でも、それが”既読“になることはありませんでした」
事故当日の正午に届いた沙也香さんからの最後のLINE。友太さんがこのメッセージに返信できたのは、事故発生の後だった(遺族提供)
友太さんが一宮の病院に着いたのは、午後8時半頃でした。親族が待機する控室に向かうと、沙也香さんの両親、兄妹が泣き崩れていました。
「それから何時間経ったでしょう、ようやく妻と対面したその瞬間、私の心は崩れ落ちました。顔と身体は腫れあがり、滲む血に覆われ、頭部の内出血の影響で両目の周囲は黒く変色していました。まるで別人のようなその姿は言葉では表しきれないほど痛々しく、ただ手を握り、沙也香、沙也香……と呼び続けました」
脳外科医と産科医の説明によれば、沙也香さんは救急搬送される時点で意識はなく、すでに瞳孔が開いていたそうです。脳損傷で出血が酷かったため、頭骨を取り除き、脳圧を減らす手術をおこなったものの、出血部位が分からず、再度手術を行っても途中で息を引き取る可能性が非常に高く、今日か明日が山、とのことでした。
■事故後、帝王切開で生まれた我が子との初めての対面
「医師の説明を聞き、非常に厳しい状態であることを察した私は、これ以上、沙也香の苦しみを長引かせたくないと思い、再手術はせず医師の勧めに応じて、面会制限の少ない一般病棟への移送をお願いすることにしました。そしてすぐ、子どもが搬送された病院へ向かいました」
沙也香さんのお腹の中で突然の事故に遭い、予定日より約1か月半早く生まれてきた日七未ちゃん。友太さんは、NICUでその小さな赤ちゃんと初めて対面しました。
「沙也香にそっくりの可愛い顔、小さな手、小さな足……。私は保育器の中に手を入れ、少しだけそのやわらかな身体に触れました。これ以上ないほど不幸なかたちで生まれてきた娘。それでも、小さな身体で、懸命に生きてくれているその姿が愛おしく、ただ『ありがとう』と声をかけることしかできませんでした」
気管切開を受ける前の日七未ちゃん(家族提供)
■へその緒の半分を妻の棺に入れて
日七未ちゃんに面会した後、友太さんは再び沙也香さんが待つ病院へ戻りました。NICUで撮影させてもらった日七未ちゃんの写真をプリントして沙也香さんの横に置き、「産んでくれてありがとう……」と声をかけました。
しかし、事故から2日後の5月23日早朝、容態は急変。沙也香さんは静かに息を引き取ったのです。
「日七未のへその緒が結構長かったので、それを半分に切り、ひとつは私の手元に、もうひとつは沙也香の棺に納めました。結婚して4年、一度流産を経験した私たちにとって、新しく授かった命は宝物でした。『とにかく無事に生まれてきてほしい』『思いやりのある子に育ってほしい』と毎日のように夫婦で語り合っていました。彼女が娘の誕生をどれほど心待ちにし、どれだけ深く愛していたかを、私は隣でずっと見てきました。
お腹を撫でながら語りかける沙也香は穏やかな母の顔をしていました。その沙也香が、一度も我が子を抱くことも、目を合わせることも、成長を見守ることもできずに旅立ってしまったという現実は、あまりにも悲しく、理不尽で、無念としか言いようがありません。33歳で葬儀の喪主をつとめることになった私は、沙也香に恥ずかしい姿は見せたくない、安らかに眠ってほしい、その思いだけを胸に、式を終えました」
沙也香さんは大学時代、愛知県内の交通事故による死亡件数の多さを問題意識として捉え、論文を執筆していたそうです。人一倍、交通安全の啓発に関心を持ち、社会の課題として真剣に向き合っていた彼女が、奇しくも交通事故によって命を奪われるとは……。
友太さんはその悔しさをこう語ります。
「沙也香は、決してこのような最期を迎えてよい人ではありませんでした……」
事故の4日前、友太さんが単身赴任先の広島から沙也香さんの実家を訪れていたときに撮った最後の写真。沙也香さんは生まれてくる赤ちゃんのために運動や食事など細心の注意をして過ごし、努力を重ねていたという(遺族提供)
■なぜ「胎児」は被害者と認められないのか…
6月11日、加害者は過失運転致死の罪で起訴されました。起訴状の「公訴事実」には、以下のように記されていました。
【前方左右を十分注視せず、ハンドル・ブレーキを的確に操作しないまま漫然時速約30キロメートルで進行した過失により、自車を道路右端の路側帯に進行させ、折から同路側帯内を自車と同一方向へ向かい歩行していた研谷沙也香(当時31歳)に気付かず、同人の後方から同人に自車右前部を衝突させるなどして同人を路上に転倒させ、よって、同人に急性硬膜下血腫の傷害を負わせ(中略)死亡させたものである】
なぜ、明るい時間帯に、しかも見通しのよい道で、前を歩く沙也香さんの姿に気づかなかったのか……。
加害者は取り調べの中で、「事故の記憶がない」と述べていたにもかかわらず、釈放後、遺族に対しては、「居眠りをしていたかもしれない」と供述を変えてきたといいます。
「都合が悪くなると平気で供述を変える姿勢に、私たち遺族は一層辛い思いをすることになりました。『事故の記憶がない』と言いさえすれば責任を逃れられるような前例は、絶対に作ってはなりません」
そしてもうひとつ、起訴状を目にした友太さんは、この事故をきっかけにどうしても訴えていきたいことがあると言います。それは、日七未ちゃんも「被害者」として扱われるべきだという、父親としての切実な思いです。
「刑法では、『胎児は母体の一部』とされていて、過失による事故で胎児が命を落としても、原則として罪に問われないとされています。しかし、娘の日七未は、明らかにこの事故の被害者です。事故の瞬間、胎児だったという理由で起訴状に名前も記されず、加害者に刑事責任が問われない可能性があるという現状には、深い疑問と怒りを感じています。
本件は、私たち家族だけの痛みではなく、社会全体が向き合うべき深刻な問いを突きつけています。胎児に関する法的な扱いは非常に難しい問題ですが、同じような悲劇が再び起こらぬよう、司法が毅然と責任を問うことは、命の尊厳を守る上で絶対に必要です。娘の無念が司法に届くことを願っています」
ちなみに、熊本で起こった水俣病事件で、最高裁は『胎児に加えられた侵害が出生後に人に死傷の結果をもたらした場合、業務上過失致死罪が成立する』と判示しています(昭和63年2月29日決定)。この解釈をあてはめれば、お母さんのお腹の中で交通事故に遭い、重い後遺障害を負った日七未ちゃんも「被害者」ではないでしょうか。
■妻と娘の命が、社会の問題を見つめ直すきっかけになれば…
あと数か月頑張れば、家族3人、広島で幸せな生活が始まる……、友太さんはその日を楽しみに、家族との未来を思い描いていました。しかし、今回の事故によってその全てを奪われました。ふと、自身の死を願うこともあるといいます。
「準備していたベビーベッド、哺乳瓶等の育児用品、整理された出産関係の書類……、全てが悲しみに繋がります。交通ルールを守り、ただ道路の右端を真っすぐ歩いていただけの妻が、なぜ、命を落とさなければならなかったのか。警察から返された、びりびりに破れた血だらけの服、靴、ちぎれた鞄は、妻がどれほどの衝撃と苦痛を受けたかを物語っており、想像するだけで涙が止まりません」
友太さんは今、育児休暇を取得し、毎日、日七未ちゃんの面会を続けています。しかし、医療的ケア児の受け入れ施設は少なく、退院後の見通しは立っていません。父子家庭で仕事をしながら24時間の介護をおこなうことは難しいため、まずは自身の実家で両親の協力を得ながら、在宅介護を行う準備をしているところです。
事故から3カ月、まだ日が浅い中、筆者に連絡を取り、あえて苦しい体験を語ろうと思った理由について、友太さんはこう語ります。
「自動車は便利である一方、ほんの一瞬で、自身だけではなく、相手のすべてを不幸にしてしまいます。この記事をご覧になった方には、いま一度、交通安全について考えていただき、私と同じ思いをする方が少しでもいなくなることを願っています。また、胎児の法的扱いや医療的ケア児の制度の課題についても、一緒に考えていただきたいと思います。妻と娘の命が、社会の問題を見つめ直すきっかけになることを願い、オンライン署名も開始しましたので、ご賛同いただければ幸いです」
加害者の初公判は、9月2日(火)午前10時50分から、名古屋地裁一宮支部で開かれる予定です。亡くなった沙也香さんだけでなく、この事故によって重度障害を負った日七未ちゃんも、一人の「被害者=人」として扱ってほしいという、父親の友太さんの思いは届くでしょうか。
検察には、ぜひ再捜査をしたうえで訴因変更をおこない、本裁判を進めていただきたいと思います。
<オンライン署名>
~妊婦をはねた死亡事故~ 緊急帝王切開で産まれ、重度の障害を負いながらも懸命に生きる娘は被害者ではないのか?「胎児への加害行為に対して過失運転致傷での起訴を求めます」
我が子を一度も抱くことができぬまま命を奪われた沙也香さんの遺影(遺族提供)