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娘の死から7年、両親はなぜ「三井住友海上」に謝罪を求めたのか【聴覚障害女児/危険運転死亡事件】

2025.11.18(火)

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娘の死から7年、両親はなぜ「三井住友海上」に謝罪を求めたのか【聴覚障害女児/危険運転死亡事件】

 11月15日、『東京2025デフリンピック』が開幕しました。デフ(Deaf)とは、英語で「耳がきこえない」という意味。国際ろう者スポーツ委員会(ICSD)が主催する4年に1度の国際スポーツ大会で、日本で初めて開催される今回は、100周年の記念すべき大会となりました。

 耳が聞こえなくても、国際手話や視覚的なサインを活用すれば、スポーツの世界でも無限の可能性が広がるのですね。さまざまな種目で努力を重ね、汗を流してきたアスリートたちが、26日まで繰り広げる熱戦が楽しみです。

■裁判の長期化で心が疲弊。何度も「娘のもとへ行きたい…」と

 さて、『東京2025デフリンピック』の会期中である11月23日(日)、聴覚障害者に関する重要なシンポジウムが開催されます(*文末に案内を掲載)。

 基調講演を行うのは、7年前、聴覚障害のある長女の安優香さん(当時11歳)を、てんかん発作で暴走した重機(ホイールローダー)にはねられ亡くされた、井出努さん、さつ美さん夫妻です。

 父親の努さんは語ります。

「今年2月5日、大阪高裁で画期的な判決が確定しました。その内容は、聴覚障害があった私たちの娘・安優香の逸失利益(将来得られたであろう収入)を100%認めるというものでした。徳岡由美子裁判長は、安優香が年齢相応の学力と言語力を身につけていたとし、将来的にはデジタル機器の進歩や社会情勢の変化によって、健常者と同じ条件で働くことができたはずだと判断したのです。障害児の逸失利益を健常児と同じとする判決はこれが初めてだそうですが、このような画期的な結果を得られたのも、弁護団の先生方のお力と大阪聴力障害者協会のご支援、そして、全国から寄せられたたくさんの方々からの応援があってのことと心から感謝しています」

 判決が確定したその日は、奇しくも7年前、安優香さんの告別式がとり行われた日でした。最愛の娘を失うという苦しみの中、予想外に長期化する民事裁判は、井出さん夫妻にとって耐えがたいものだったといいます。

「私たちはこの裁判中、精神的に疲弊し、『早く安優香のもとへ行きたい』と何度も思いました。でもあるとき、安優香は自らの命と引き換えに、司法や差別などの社会問題を世に問うために生まれて来たのではないか、と思うようになりました。そして、それを変えることこそが、私たち遺族の「宿命」なのだと……」

安優香さん、11歳の誕生日を祝う父親の努さん。これが最後のバースデーケーキとなった(遺族提供)

安優香さん、11歳の誕生日を祝う父親の努さん。これが最後のバースデーケーキとなった(遺族提供)

■「真摯に受け止め…」7年後、三井住友海上から届いた書面

 私は、安優香さんの民事裁判が始まった直後から、井出さんご夫妻の取り組みを取材してきました。

 そもそも本件は、横断歩道で信号待ちをしていた安優香さんには何の落ち度もありません。てんかんの持病を隠してホイールローダーを運転していた被告は、危険運転致死傷の罪に問われ、すでに懲役7年の実刑判決を受けています。つまり、刑事裁判ではきわめて悪質な運転行為だったことが認定されているのです。

 ではなぜ、民事裁判は判決確定までにこれだけ長い時間がかかったのでしょうか。井出さん夫妻を苦しめ、精神的に追い詰めたもの、その「正体」はいったい何だったのか……。

 判決確定から約1か月半後、加害者側が自動車保険に加入していた三井住友海上火災保険株式会社の関西損害サポート第一部長から、井出さん夫妻と弁護士宛てに一通の書面(2025年3月17日付)が送られてきました。

 ちなみに、この裁判の「被告」は、加害者本人とその雇用会社であって、三井住友海上は訴訟当事者ではありません。にもかかわらず、同社はこの書面の中に、

『本訴訟における引き受け保険会社として、交通事故の被害者及びそのご家族の心情への配慮を欠いており、深く傷つける主張内容であったとのご指摘については、真摯に受け止めております』

 という一文を記載してきたのです。

 私はこれまで、長年にわたって損保会社の払い渋りや裁判における理不尽な主張を取材してきましたが、判決確定後に「引き受け保険会社」が、原告である被害者側にこうした書面を送ってくることは初めてで、井出さんから連絡を受けたときは大変驚きました。

 そこで、井出さんご夫妻がこの書面を受け取るまでの経緯とその後の動きを紹介しながら、本件の根幹にある問題について、あらためて考えてみたいと思います。

■娘の命を奪っておきながら、なんという酷い主張を…

 裁判(一審)の経緯と三井住友海上とのやりとりについては、2021年、下記の記事でレポートしていますが、ここで改めて振り返っておきます。

損保による「払い渋り」の過酷な現実…【聴覚障害女児死亡事件】27日に注目判決(柳原三佳) - エキスパート - Yahoo!ニュース

 実は、私が本件の取材を始めた当初、井出さんの強い怒りは、この裁判の「被告」、つまり、加害者本人と雇用会社に向けられていました。

 その怒りに火をつけたきっかけのひとつは、被告側が裁判で「聴覚障害の進学と就労」をテーマにした専門家の論文を証拠として提出し、以下のように主張してきたことでした。

 被告側の書面から一部抜粋します。

●聴覚障害者には「9歳の壁」「9歳の峠」問題がある。聴覚障害児童の高校卒業時点での思考力や言語力・学力が小学校中学年水準に留まるという現象である。

●「9歳の壁」問題もあって、聴覚障害児童は健常児童に比べて大学等に進学できる学力を獲得することが困難である。仮に大学等に進学できても、十分な情報保障や周囲の理解が得られず、高等教育の学習に支障が出ることが少なくない。

●聴覚障害者は思考力・言語力・学力を獲得するのが難しく、就職自体も難しい。就職できたとしても非正規社員が多く、昇進できる者も少なく、転職を繰り返す者も多い。そのまま働き続けることができず、未就業者になる者も多い。そのため、聴覚障害者が得られる賃金は低廉なものとなる。

 井出さんは、被告側のこうした主張を目にしたときのショックをこう振り返ります。

「何の落ち度もない娘の命を危険運転で奪っておきながら、なんという酷い主張をしてくるのだと、言葉にできないほどの怒りを覚えました。安優香は3歳の頃から母親と片道1時間の道のりを毎日通い『キュードスピーチ』という特殊な50音を学ぶなど、大変な努力を重ねていました。その成果もあり、安優香は人とのコミュニケーションも、ものおじせずできる子になっていました。そもそも、被告側から証拠として出された論文は2009年に作成されたものです。この10年で聴覚障害者にとって役立つデジタル機器やさまざまなアプリは進化しているはずです。にもかかわらず、被告側は自分たちにとって都合のいい部分だけを抜粋して娘に無理やり当てはめ、聴覚障害があることを理由に一方的に未来の可能性を否定し、差別してきたのです」

母親のさつ美さんと共に、キュードスピーチに使う図形を覚える訓練。楽しそうに、積極的に取り組む3歳当時の安優香さん(井出さん提供)

母親のさつ美さんと共に、キュードスピーチに使う図形を覚える訓練。楽しそうに、積極的に取り組む3歳当時の安優香さん(井出さん提供)

■「被告」の背後にいる損保会社の実態

 このとき、私は井出さんにこう告げました。

「民事裁判でこのような主張をしているのは、刑務所の中にいる加害者や雇用会社だと思われますか? 刑務所に収監中の加害者がこのような論文まで証拠として出し、『9歳の壁』などという主張をするでしょうか。裁判で実際に動いているのは、ほとんどの場合、加害者側が加入している自動車保険の引き受け会社です」

 すると井出さんは、はっとしたように、「なるほど……」とおっしゃいました。

 まもなく、加害者側が自動車保険を契約していたのは三井住友海上であること、そして、実質的に「聴覚障害者の能力、賃金は低い」という主張をしているのは、同社の可能性が大であることに気づかれたのです。

■「個別の契約については、回答は差し控える」

 被告側の損保会社が三井住友海上だと知らされた私は早速、「9歳の壁」や「逸失利益の大幅減額」といった主張について、同社がどのように考えているのか、また、「被告(※三井住友海上にとっては契約者)が、裁判でこのような主張をしていることを把握しているのか?」について質問しました。

 それに対する2021年時点の三井住友海上(広報部)の回答は以下の通りでした。

「お客さま(被告)にかかわる個別のご契約につきましては、守秘義務がございますので、回答は差し控えさせていただきます。係争事案は、個別の事情に応じて法廷でご判断されるものでございますので、法廷を尊重する立場から、一般論の回答を差し控えさせていただきます」

 ちなみに被告側はこの時点で、安優香さんが生まれつきの難聴だったことから、「逸失利益」は、『一般女性の40%(基礎収入153万520円)で計算すべきだ』と主張していました。

 その後、裁判の途中で「原告らの指摘により聴覚障害者の平均賃金の存在を知った」として、基礎収入を「聴覚障害者の平均賃金(294万7000円)」に変更し、算出しなおすという一幕もありましたが、結果的に大阪高裁は安優香さんの逸失利益について、聴覚障害者ではなく、全労働者の平均年収を適用して判決を下したのです。

 障害児の逸失利益を健常児の「100%」で計算する判断は、冒頭でも書いた通り初めての画期的な判決でした。それだけに、本件は大きく報道されたのでした。

 こうした流れと結果を見ると、当初の被告側の主張はあまりに乱暴で被害者をないがしろにした主張だといえるのではないでしょうか。もし、被害者側が早い段階で示談に応じていたら、いったいどうなるのか。損保会社も営利企業であることは理解しますが、こうした現実を目にするたびに、これでよいのかと疑問を感じざるを得ないのです。

 一方、万一のことが起こったとき、私たちドライバーは、「せめて被害者には十分な賠償をしたい」と思って無制限の自動車保険を契約しています。それなのに、自分の思いが届かぬ場所で、一方的に被害者を傷つけ、裁判が長期化しているとしたら……。

 これは、被害者だけでなく、加害者にとっても大変不本意で、深刻な問題だと言えるでしょう。

大阪地裁の前でデモ行進を行う井出さんと支援者たち(遺族提供)

大阪地裁の前でデモ行進を行う井出さんと支援者たち(遺族提供)

■判決確定後、三井住友海上に謝罪を求めた遺族

 安優香さんが命を奪われてから7年、井出さんは高裁判決が確定すると、弁護士を通して三井住友海上に連絡を入れました。一生懸命学び、前向きに生きてきた娘の努力を知りもせず、聴覚障害があるというだけで差別されたことを絶対に許すことができなかったからです。

 判決確定から1か月半後、三井住友海上から送られてきた回答書には、冒頭で紹介した『交通事故の被害者及びそのご家族の心情への配慮を欠いており、深く傷つける主張内容であったとのご指摘については、真摯に受け止めております』という一文に続き、以下のように綴られていました。

●このたび裁判所は井手安優香様の聴覚の状態像を正確に理解した上で、障害者法制の整備、テクノロジーの発展や聴覚障害者をめぐる教育、就労環境等の変化といった聴覚障害者を取り巻く社会情勢の急速かつ確実な前進を踏まえ、逸失利益を評価されたものと認識しております。

●弊社は障害者に関するものを含む関連法制や今回の判決結果、最新の判例等も踏まえて、交通事故の被害者及びそのご家族のお気持ちやご事情に配慮しながら、誠実な対応の徹底に努めていく所存です。

 これを読んだ井出さんは、

「具体的な謝罪の言葉は書かれていなかったものの、私たちとしてはその意味だと受け止めています。ただ、数年にわたって酷い差別発言を浴びせられたわりには、正直に言って、ありきたりな文面だと感じました」

 と言います。しかし、訴訟当事者ではない三井住友海上が、ここまで真摯に反省の弁を述べ、踏み込んだ内容の書面を被害者である原告に送ってきたということについては、一定の評価をすべきでしょう。

「寝たきり者は長く生きられない」

「障害を負っても数年経てば慣れる」

「大学に入っても卒業できるとは限らない」

 などなど、被害者切り捨てともいえる一方的な主張を行う傾向は他の損保会社にもみられ、けっして三井住友海上だけの問題ではないのです。

■被害者を苦しめる損保業界の体質を変えたい…

 そこで私は、加害者側の損保会社の対応と賠償額の提示のあり方について、「対立」ではなく「前向き」な懇談をして記事化したいと考え、三井住友海上に取材を申し込みました。

 広報部の担当者は本件の経緯と問題点を把握したうえで誠実に対応し、「社内で検討させていただきたい」と、この提案をいったん受け入れてくれました。しかし数日後、返ってきたのは、残念ながらこの取材に応じることはできないという回答でした。

 井出さんは語ります。

「せっかく柳原さんが取材を申し込んでいるのに、それに応じないというのは、自分たちのやってきたことに対して真摯に受け止める姿勢が見られない、結局、古い体質から変わろうとしない、私はそう受け止めます。今回、30名を超える弁護団の中には4名の聴覚障害者と、1名の視覚障害者がおられました。先生方は、自分たちが弁護士としての職責を全うしている姿こそが何よりの証拠だと信じ、力を尽くしてくださいました。三井住友海上は裁判で主張したことに最後まで責任を持つべきです」

 今回の裁判で井出さんは、根強く残る障害者差別について大きな問題提起を行い、ひとつの判例を残されました。そして今も、国会議員に法改正の要望をおこなうなど活動を続けています。

「もう二度と被害者が苦しめられることのないよう、娘が生きた11年間の証を残すために、私は父親としてやり遂げたいと思っています」

 11月23日のシンポジウムは、リモートでどなたでも視聴できるとのことです。

 ぜひ、井出さんご夫妻、そして本件に関わられた弁護士の方々のお話に耳を傾けていただきたいと思います。

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★被害者支援シンポジウム2025

「娘の交通死亡事件と障害者差別 ~二重の苦しみに直面して~」

 今回のシンポジウムは、2018年に聴覚障害のあるお子さんを交通犯罪で亡くされた井出努様、さつ美様ご夫妻を講師にお迎えします。理不尽な交通犯罪で大切なお子さんを亡くされ、ご夫妻は大きな苦しみ、悲しみを抱える中で、刑事手続きを始めとする様々な事柄に対応していかねばなりませんでした。加えて、運転者側は亡くなったお子さんの聴覚障害を理由に、保険金査定で逸失利益の減額を主張してきました。それに対してご夫妻は民事訴訟を起こされ、控訴審で、逸失利益の減額を認めない、画期的な判決が出されました。本シンポジウムでは、被害者が抱える問題、必要な支援のあり方、また、障害者差別と今回の判決の社会的意義についても考えていきます。 

●日時 : 2025年11月23日(日・祝) 13時30分~16時(開場 13時10分)

●場所 : 大阪大学中之島センター7階セミナー室A、B

<プログラム>

●第1部 基調講演

「裁判を終えた今を振り返る」

講師

井出 努 氏(交通犯罪被害者遺族)

井出 さつ美氏(交通犯罪被害者遺族)

●第2部 パネルディスカッション

「娘の交通死亡事件と障害者差別 ~二重の苦しみに直面して~」

<パネリスト>

井出 努 氏、井出 さつ美氏

坂戸 孝行氏(大阪弁護士会弁護士)

久保 陽奈氏(第一東京弁護士会弁護士)

<司会進行>

井上尚美(大阪被害者支援アドボカシーセンター)

定員 : 会場 先着100名  Web(YouTube)制限なし

参加費派:会場、Webともに無料

*YouTube配信は当日のライブ配信と1週間の見逃し配信を行います。当センターホームページにアクセス用バナーを出しますので、そちらから視聴してください。

※ 会場でのみ手話通訳及び要約筆記があります。

sinpojiumu2025.pdf

被害者支援シンポジウム2025参加申し込み

<運動会で上手にスピーチを行う生前の安優香ちゃんの姿>