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聴覚・視覚障害の弁護士たちが立ち上った! 難聴の11歳女児死亡事故裁判に異議

2021/5/6(木)

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聴覚・視覚障害の弁護士たちが立ち上った! 難聴の11歳女児死亡事故裁判に異議

「娘は11年間、必死に努力し、頑張ってきました。将来、たくさんの可能性を秘めていました。にもかかわらず、民事裁判で『聴覚障害がある』と差別され、侮辱を受け……。親としてどうしても黙っていることはできません」

 悔しさを込めながらそう語るのは、大阪府豊中市在住の井出努さん(48)です。

 長女・安優香さん(当時11)が事故に遭ったのは、 2018年2月1日、下校中のことでした。

「あの日は朝から小雨が降っていました。朝ご飯を安優香と一緒に食べて、家を出て、自宅から江坂駅まで1キロの道のりを、手をつないで歩き、いつもの電車に乗りました」

 バレンタインデーが近づいていたので、努さんは電車の中で、「何があるのかなぁ?」と安優香さんにたずねました。安優香さんははにかむような笑みを浮かべ、「ナ・イ・ショ……」と答えたそうです。

 間もなく、安優香さんがJRに乗り換える梅田駅に着きました。

「私が『今日も頑張ってね』と手話で話しかけると、安優香は『うん』と縦に首を振りました。そして、ハイタッチをして電車を降り、エレベータの前で手を振ったので、私も車内の窓から手を振って別れました。これが安優香との最後の時間になったのです。毎年、この時期が近づくと、あのときの笑顔を思い出し、泣きたくなります」

2017年9月10日、11歳のバースデーケーキを前に嬉しそうな表情を見せる安優香さんと父親の勉さん。この半年後に事故は起こった(井出さん提供)

2017年9月10日、11歳のバースデーケーキを前に嬉しそうな表情を見せる安優香さんと父親の勉さん。この半年後に事故は起こった(井出さん提供)

■手術室で安優香さんと対面

 妻のさつ美さん(50)から、取り乱した声で電話がかかってきたのは、この日の午後4時頃のことでした。安優香さんが下校途中、交通事故に遭って、心臓が止まりそうだというのです。

『どうか嘘であって欲しい……』

 そう念じながら、急いでタクシーに乗った努さんは、病院に到着後、すぐに担当医から容態の説明を受け、手術室に通されました。
 そこには、人工呼吸器をつけられ、救命措置を受けている安優香さんの姿がありました。

「私はその場で泣き崩れました。何度も名前を呼びましたが返事はありません。安優香の目にはうっすらと涙が浮かんでいました。看護師の方が血で汚れた顔を綺麗に拭いてくれましたが、それでも目には涙が浮かんでいました。少し遅れて到着した妻は手術室の前で泣き崩れ、そのまま倒れ込んでしまったので、車いすに乗せられて安優香と対面しました。妻も『安優香、起きて、目を開けて!』と何度も声をかけましたが、安優香は目を覚ましませんでした……」

 まもなく担当医から、「これ以上、心臓マッサージを続けると身体に傷がつきますので、そろそろ死亡確認をさせて下さい」と告げられた井出さんは、信じたくない気持ちを抑えながら、「わかりました。お願いします」と返事をしました。

2018年2月2日の産経新聞に掲載された、事故直後の現場写真(井出さん提供)

2018年2月2日の産経新聞に掲載された、事故直後の現場写真(井出さん提供)

■信号待ちの小学生に、突然突っ込んできたホイールローダー

 事故は、大阪府立生野聴覚支援学校の前で発生しました。
 安優香さんは小学部の先生や友達と下校途中、横断歩道の前で信号待ちをしていたところ、道路工事をしていたホイールローダーが突然暴走し、至近距離から突っ込んできたのです。

 この事故で安優香さんが死亡、一緒にいた児童2人と教員2人も重傷を負いました。

 歩行者には何の落ち度もありませんでした。

事故直後の現場検証の模様を伝える2018年2月2日の産経新聞(井出さん提供)

事故直後の現場検証の模様を伝える2018年2月2日の産経新聞(井出さん提供)

■持病のてんかんを隠していた加害者

 自動車運転処罰法違反(危険運転致死傷)などの罪で起訴された加害者の男(当時36)は、「難治てんかん」という脳の持病を持っていました。
 この病気は、意識を失うような発作がいつ起こるかわからないため、医師や家族は再三「運転しないように」と注意していたそうです。
 にもかかわらず、男は虚偽の申請をして免許証を取得し、仕事で重機の運転を続けていたのです。

 大阪地裁の裁判官は、『本件事故時はてんかん発作で意識を喪失していた』と認定し、『てんかんの危険性を軽視していたと言わざるを得ず、厳しい非難に値する』として、危険運転致死傷罪の成立を認め、2019年3月、懲役7年(求刑懲役10年)の判決を言い渡しました。

 加害者は現在、刑務所に収監されています。努さんは、それでも納得はしていないと言います。

「加害者はこの事件の前にも、数件におよぶ当て逃げや人身事故を犯していたことがわかっています。それなのに、今回も自らの持病と向き合わず重機を運転し、その結果、ただ信号待ちをしていただけの娘の命を奪ったのです」

事故前年の夏休みに撮影した旅行先での家族写真。3つ年上の兄はとても妹思いだったという(井出さん提供/母親と兄はプライバシー保護のため顔にモザイクを入れています)

事故前年の夏休みに撮影した旅行先での家族写真。3つ年上の兄はとても妹思いだったという(井出さん提供/母親と兄はプライバシー保護のため顔にモザイクを入れています)

■「9歳の壁」問題を一方的に押し付けてきた被告側

 刑事裁判で実刑判決が確定してから1年後の昨年3月、井出さん夫妻は加害者本人と建設会社を相手取り、損害賠償を求める民事裁判を起こしました。

 ところがこの裁判の中で、井出さん夫妻はさらに苦しめられ、傷つけられることになったのです。

 井出さんは語ります。

「被告側は、安優香が生まれつきの難聴だったことから、将来得られたはずの収入である逸失利益について、一般女性の40%で計算すべきだと主張してきました。『聴覚障害者には、9歳の壁、9歳の峠、という問題があり、聴覚障害児童の高校卒業時点での思考力や言語力・学力は、小学校中学年の水準に留まる』というのです。ようするに、健聴児童に比べて大学等に進学できる学力を獲得することが困難で、仮に大学等に進学できても、高等教育の学習に支障が出ることが少なくないということです」

 今回、被告側の主張を見て、『9歳の壁』という問題を初めて知った井出さんは、ネットや知人の教育従事者に話を聞いてその意味を調べ、あまりに一方的な、根拠のない決めつけに憤りを覚えたと言います。

「安優香は0歳から補聴器をつけていました。医師に、『早い時期から外部の音を取り入れることで、将来の言葉の発音が変わる』と言われたため、妻が懸命に早期教育に取り組んでいたのです。また、調べてみたところ、『9歳の壁』の問題は、難聴者に限らず、健常者の子供にもあてはまるそうです。娘が通っていた聴覚支援学校では、この『9歳の壁』を乗り越えるための教育を徹底していると担任の先生から聞きました」(努さん)

安優香さんが使っていた特注の補聴器は血で赤く染まっていたが、父親の努さんはきれいに洗い、毎日胸ポケットに入れて通勤している(井出さん提供)

安優香さんが使っていた特注の補聴器は血で赤く染まっていたが、父親の努さんはきれいに洗い、毎日胸ポケットに入れて通勤している(井出さん提供)

■聴覚障害者の逸失利益は一般女性の40%にすぎない?

 しかし、被告側はこうした安優香さん本人と家族の努力や学習の成果を評価することはせず、2009年と2014年にまとめられた二つの論文を証拠として提出し、『聴覚障害者の就職は困難である、だから収入は低いはずだ』という一般論で、逸失利益の減額主張を展開してきたのです。

 井出さんは憤りを隠せない様子で語ります。

「被告側が出してきた準備書面には、逸失利益の計算の基礎となる『基礎収入』について、『聴覚障害者は思考力・言語力・学力を獲得するのが難しく、就職自体も難しい。就職できたとしても非正規社員が多く、昇進できる者も少なく、転職を繰り返す者も多い』と、明記されていました。さらに、『そのまま働き続けることができず未就業者になる者も多いため、聴覚障害者が得られる賃金は低廉なものとなる』とも……」

 もちろん、井出さん自身も、障害者が職業の選択に苦労することが少なくないこと、また、高い収入を得ることが難しいという現実があることは理解していると言います。

「だからこそ、私たちは安優香に早期教育を施し、あえて3歳から、自宅から遠い生野聴覚支援学校の幼稚部に通わせ、小学校も同じ学校を選んで入学させました。そして、将来、辛い思いをしないようにと厳しく育ててきたのです」

 下の写真は、安優香さんが3歳のときの勉強シーンを写したものです。

母親のさつ美さんと共に、キューとスピーチに使う図形を覚える訓練をする3歳当時の安優香さん(井出さん提供)

母親のさつ美さんと共に、キューとスピーチに使う図形を覚える訓練をする3歳当時の安優香さん(井出さん提供)

優香さんが3歳の頃、幼稚部での訓練をまとめたさつ美さんの日記。毎日レポートすることが日課となっていた(井出さん提供)

優香さんが3歳の頃、幼稚部での訓練をまとめたさつ美さんの日記。毎日レポートすることが日課となっていた(井出さん提供)

 幼稚部には母親のさつ美さんが片道1時間の道のりを毎日付き添って通い、「キュードスピーチ」という特殊な50音を学ぶなど、幼いころから大変な努力を重ねてきたと言います。

「その成果もあり、安優香は人とのコミュニケーションもものおじせずできる子になっていました。以下の動画を見ていただければわかりますが、学校の行事も普通の小学生と同じようにこなしていたのです。それなのになぜ、新しいとは言えない一般的なデータを押し付け、逸失利益を減額されなければならないのでしょうか」(努さん)

■聾・盲の弁護士たちが裁判支援に立ち上った!

 被告側の主張に納得がいかない井出さん夫妻でしたが、3月、新たな展開があり、大きな勇気を得たと言います。

「今年2月、朝日新聞に安優香の裁判の記事が掲載されたのですが、それを見た聴覚、視覚に障害を持つ弁護士の方々から『ぜひ力になりたい』と私の代理人に連絡があったのです。そして、3月末にweb会議にて打ち合わせが行われ、早速に弁護団を結成し、この裁判を闘っていただくことになりました」

 日本には聴覚や視覚に重い障害を持ちながらも、努力を重ねて司法試験に合格し、活躍している人たちがいます。こうした弁護士の立場から見れば、今回の被告の主張には看過できないものがあるのでしょう。

 弁護団の一人で、『全盲の僕が弁護士になった理由』(日経BP社)の著者でもある大胡田誠弁護士は、被告側の主張に対してこう指摘します。

「現在の訴訟実務では、子どもが事故に遭った場合、男の子でも女の子でも、名門私立の児童でも公立の児童でも、区別をせず、全労働者の平均賃金を基礎にして将来の逸失利益を算定する取り扱いになっています。この背景には、子どもの属性によって、命の重さは違わないという価値観があります。にもかかわらず、被害に遭った子どもに障害があると、逸失利益の計算で健常者とあからさまな差異をつけられてしまう。これは、疑いようもなく、障害者権利条約が禁止している障害を理由とする差別だと考えています」 

キュードスピーチの50音が並ぶひな祭りの掲示。生野聴覚支援学校にて(井出さん提供)

キュードスピーチの50音が並ぶひな祭りの掲示。生野聴覚支援学校にて(井出さん提供)

■被告側損保「三井住友海上」の回答

 交通事故の民事裁判では、被告本人の意思よりも、被告側が加入している任意保険会社の判断が大きな影響を与えている場合が多いのが現実です。
 井出さんによれば、被告側の任意保険会社は三井住友海上とのことでしたので、私は早速、「9歳の壁」や「逸失利益の減額」の主張について、同社がどのように考えているのか、また、被告本人が裁判でこのような主張をしていることを把握しているのか質問してみました。

 三井住友海上(広報部)の回答は以下の通りでした。

「お客さま(被告)にかかわる個別のご契約につきましては、守秘義務がございますので、回答は差し控えさせていただきます。係争事案は、個別の事情に応じて法廷でご判断されるものでございますので、法廷を尊重する立場から、一般論の回答を差し控えさせていただきます」

 次回の口頭弁論は、5月26日10時から、大阪地裁で開かれます。
 弁護団は安優香さんの生前の学習ノートなどから、「聴覚障害があっても、きちんと言語能力を獲得し、将来、何にだってなれた子どもだ」という客観的な意見を持って、反論していく予定だそうです。

 裁判を20日後に控え、井出さんはこう語ります。

「この裁判の判例が、同様の事案でよい方向に活用されるよう、そしてなにより、将来の夢や無限の可能性を突然奪われた安優香のために、ぜひ頑張りたいと思います」

安優香さんの民事裁判が行われる大阪地裁(筆者撮影)

安優香さんの民事裁判が行われる大阪地裁(筆者撮影)