ジャーナリスト・ノンフィクション作家 柳原三佳オフィシャルサイトHP

ジャーナリスト・ノンフィクション作家 柳原三佳オフィシャルHP

死亡事故を起こしたら――あなたの知らない「交通刑務所」の生活

2021.10.11(月)

JBPress記事はこちら

死亡事故を起こしたら――あなたの知らない「交通刑務所」の生活

「もらい事故」でも判決内容次第では収容される可能性も・・・

 先日執筆した『大型バイクで死亡事故、加害者が任意保険に未加入だったら バイク保険の加入率は5割以下、自賠責だけでは被害者に償えない』(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67185)には、多くの反響が寄せられた。

 その大半は、ひき逃げ死亡事故でも罰金50万円という軽い処分で終わっていたこと、そうした過去がありながら被告人が任意保険をかけずに大型バイクに乗っていたこと、そして、二度目の死亡事故を起こしながらも、今回の判決が禁錮2年にすぎなかった、という事実についての驚きの声だ。

 高知県に住む片岡晴彦さん(67)もそんな感想を寄せた一人だ。

「交差点で停止中に白バイが衝突」と裁判で訴えたが・・・

「ひき逃げ死亡事故でも罰金のみですか・・・。自分と比較しても仕方がないのですが、ずいぶん軽い気がしますね」

 片岡さんは今から15年前に発生した死亡事故で、無罪を訴えながらも実刑判決を受けた元スクールバスの運転手だ。この事故は「高知白バイ事故」として全国的に大きく報道されたので記憶している人も多いことだろう。

 2006年3月3日、片岡さんが運転するバスの中には、卒業遠足を楽しむ中学3年生22名が引率者とともに乗車していた。片岡さんや後続車に乗っていた校長によると、昼食を済ませた一行を乗せたバスは駐車場を出て一旦停止。右折しようと国道の交差点の中央まで進み、左右の車が途切れるのを待つため停止していた。そのとき、右方向から直進してきた高知県警交通機動隊の白バイが、突然バスの右前角に衝突した、というものだ。運転していた白バイ隊員(当時26)は脳挫傷などで即死。バスに乗っていた生徒たちにけがはなかった。

事故直後の様子。スクールバスの右前方に衝突した白バイが大破している(片岡さん提供)

事故直後の様子。スクールバスの右前方に衝突した白バイが大破している(片岡さん提供)

 この事故のその後の捜査や裁判についてはここでは詳しく触れないが、片岡さんは事情がつかめないまま逮捕され3日間拘留。3カ月後には免許取り消しの行政処分を受け、長年従事してきたバスの運転手という職を失った。そして7カ月後、業務上過失致死罪(当時)で正式起訴。裁判で片岡さんは「バスは止まっていた」と主張し、バスが飛び出したとする容疑事実を全面的に否認したが、2007年6月、一審の高知地裁は複数の目撃証言を一切採用することなく、「真摯な反省の情を示すところがない」と、禁錮1年4月の実刑判決を下した。

 片岡さんはすぐに控訴したが、高松高裁は即日結審し、一審判決を支持。片岡さんは最高裁へ上告したが棄却されたことで実刑は確定し、2008年10月、兵庫県の加古川刑務所に収監されたのだった。加古川刑務所は、千葉県の市原刑務所と共に、「交通刑務所」として知られる矯正施設だ。ちなみに片岡さんは無事故・無違反だったという(*「交通刑務所」とは法令で定められた名称ではない。交通事故犯が多く収容されるため、市原刑務所と加古川刑務所が一般的にそう呼ばれている)。

 上記記事でも書いた通り、交通事故の場合は死亡事故であっても約96%は執行猶予が付く。つまり「実刑」になるケースは極めて少ない。

 では、交通事故による「禁錮刑」とは具体的にどのようなものなのか・・・。

 今回は2008年10月23日から2010年2月23日までの488日間、冷房も暖房もない3畳の単独室に収監されたという片岡さんに、その実態を伺った。

死亡した白バイ隊員の冥福を祈りながら刑期を全うしようと腹を括る

――片岡さんは無罪を訴えながらも、1年4カ月間、仮釈放なしで禁錮刑を満了されたわけですね。

片岡晴彦さん(以下、片岡) そうです。刑務所に収監された直後は、「何で自分が・・・」という思いに苦しみました。もしこの裁判で、「停止中のバスに白バイが突っ込んだ」という事実認定がなされ、その上で、禁錮刑を言い渡されたのなら、私は控訴などせずそのまま刑務所へ行くつもりでした。でも、判決文に書かれた事故状況は、事実とまったく違うのです。私は決して急ブレーキをかけるような運転はしていません。でも、どうせここから出られないのなら「自分は犯罪者なんだ」、そう割り切って、亡くなった白バイ隊員の冥福を祈りながら過ごそうと決めました。それでも本当に辛かったです・・・。

「高知白バイ事故」で実刑判決を受けた片岡晴彦さん(筆者撮影)

――判決確定直後は、まず高知の刑務所に収監されたそうですね。

片岡 高知刑務所には19日間いまして、それから兵庫県の加古川刑務所のほうに移送されました。加古川は交通関係の受刑者が多いと聞いていましたが、入所時の説明ビデオを見ていると、覚醒剤、大麻、アルコール中毒者のビデオも流れたので、そういう関係の受刑者もかなりいるような感じはしました。とにかく、最初の一週間は、声を出す、整列、手を挙げての行進、回れ右、そういう基本的な訓練を繰り返しました。

禁固刑は独居房で座りっぱなしに

――いわゆる独居房という一人部屋におられたのですか。

片岡 はい。入所から釈放まで、ずっと3畳の独居房に入れられていました。数カ月ごとに別の部屋と交替するのですが、私は禁錮刑だったので、収監中はとにかく何もしないでずっと座りっぱなしでした。他の受刑者が作業をしている間は、本を読むことも、手紙を書くことも許されません。作業工場のチームが対抗するかたちでの運動会もあったようですが、私の場合、出場はおろか、見学すらできませんでした。ただ、外の賑やかな歓声を独居房の中で聞いているだけ。歌手の方が慰問に来て歌うことなどもあったようですが、そういうものも一切見ることはできませんでした。むしろ、懲役で作業している人の方が、待遇がいいような気がしましたね。

――他人と話すことはほとんどなかったのですね。

片岡 とにかく1日に発する言葉と言えば、朝の点検で自分の番号を言うときと、「おはようございます」「ありがとうございます」くらいで、声に出してしゃべるということがほとんどなかったので、言葉を忘れかけました。

――運動の時間はあったのですか。

片岡 10時になったら運動の時間ということで独居房から出され、「オイチニ、オイチニ」の掛け声をかけながら大きく手を振って行進し、別の場所へ連れて行かれました。そこは手前が2メートル、奥が3メートルくらいの動物園の檻のような部屋で、その中に入ったら自由に運動をせよ、というわけです。歩いてみたら1周20歩しかありませんでした。私は与えられた20分間、ずっと檻の中をウォーキングしていました。20分間で1500歩ほどは歩くことができましたが、動けないというのはきつかったですね。1年4カ月の間に筋肉が極端に落ち、体力もなくなり、自宅に戻った直後には和式の便器にしゃがむことも難しいほど足腰が弱っていました。

――毎日、どのような時間割での暮らしだったのですか。

片岡 朝6時半に起床し、布団を上げたら整理整頓。居室衣に着替えて、洗顔、歯磨き、用便を済ませ、「点検始め!」という号令がかかると、正座をして、朝食が配膳されてくるのを待ちます。それぞれの受刑者につけられた照合番号が呼ばれると、房の扉自体は開けずに、手が入るくらいの食器口からご飯とおかずを受け取ります。7時頃には朝食を開始し、終わったら食器を洗い、食器口に戻す、という流れです。私の場合、加古川刑務所では934番、高知では720番と呼ばれていました。

――午後からの生活はどのような流れでしたか?

片岡 12時に昼食の配膳が始まり、朝と同じく食器口から運び込まれます。その後は、また独居房で座り続けます。そして16時、懲役の受刑者たちの作業が終了すると、夕方の点検が始まり、16時20分から夕食の配膳が始まります。16時45分くらいには夕食が済んでしまうので、それ以降は余暇時間となります。FMラジオだけは、17時半から21時まで房のスピーカーから流れてくるのですが選局はできません。横になった状態では本を読むことも許されていませんし、とにかく夜の時間が退屈で長かったですね。

週に2回の入浴が唯一の楽しみ

――冷暖房はないのですよね?

片岡 ありません。家電物とは全く無縁の生活でした。冬はとにかく寒く、身体を起こしていられないので、17時には布団の中に入るんです。手のひらがかじかんで、だんだん痺れた状態になってくるので、お茶の配給があったらそれをポットからやかんに移して、そこに手をあてて暖をとっていました。あとは、配給された3枚の毛布と布団にくるまって寝るだけ。毛布をかけて寝ていると、それなりに暖かかったですけれど、逆に夏は暑かったです。窓は網戸になっているので、風もちょっとは入るんですが、それでも暑い。刑務所の方でうちわを配ってくれたのが、唯一涼をとる手段でしたね。

――刑務所での生活で、楽しみといえばなんでしたか?

片岡 唯一の楽しみは、週に2回の風呂でした。小さなユニットバスに一人ひとりが入るのですが、入浴時間は15分、お湯かけは14杯までと決まっていました。身体には6杯、頭には3杯、合計で14杯です。冬は湯船に湯が張ってあるのでシャワーは使えません。とにかく、大急ぎで体を洗って湯船に少しでも長く浸かっていたい・・・、湯船に入っているときだけが極楽でしたね。でも、入浴中も監視付きです。刑務所の中では監視がないという時間は全くなかったと言っていいでしょう。独居房にいるときでも、頻繁に回ってきていましたから。どこへ行くにも何をするにも、人間として24時間他人にのぞかれ、監視され、独居房の窓から青空は見えるけれども、外へは出られないのです。そうそう、ご飯は正月三が日だけ特別で、お菓子とおせち料理の折詰、そしてお雑煮が出ました。それはうれしかったですが、たったひとりで食べるおせち料理は、本当に寂しかったです。

――刑務所内で買い物はできたのですか。

片岡 便箋、封筒、ボールペン、写真立てなどを買いましたね。下着、長袖のシャツ、運動靴、その他日用品も買うことができるのですが、私の場合は、刑務所が揃えてくれるもので足りました。

無実を証明するため再審請求を

――ご家族との連絡の手段はありましたか。

片岡 女房や娘がたびたび面会に来てくれました。緊急事態があった場合は、女房の方から刑務所に電報を打つことは可能なのですが、こちらからは電報は送れません。私のほうから出せる手紙は1カ月4通まで、便箋の枚数もひとつの封筒に7枚までと決められていました。独居房の中には写真の持ち込みだけは許されていたので、それを布団の中で見るのだけが唯一の楽しみでしたね。女房から届く手紙の中にも家族の写真が入っていて、出所するときには全部で100枚くらいになっていました。

――1年4カ月ぶりに出所されたとき、何を感じられましたか。

片岡 とにかく、自由ほど贅沢なものはないと思いました。そして、とにかく温かいものが食べたかった。刑務所で出された食事は麦が7割混ざっていましたが、美味しくは食べられました。でも、おかずが冷たいのが辛かったんです。出所して、帰り道の高速道路のパーキングエリアで女房や娘と食事をしたのですが、最後にホットコーヒーが出てきたとき生き返った気がしました。温かいコーヒーというのは、生理的に気持ちを落ち着けてくれるものだと、あのとき本当にそう思いましたね。

――「高知白バイ事件」の発生から、今年で15年が過ぎました。片岡さんは今も無実を訴えて、再審請求の準備をされているそうですね。

片岡 はい。この事故では、警察が複数の目撃証言や証拠を無視して一方的な捜査をし、検察官も裁判官も、全て「片岡が犯人」という判断を下しました。警察は現場検証時の写真のネガすら出してきませんでした。私は、あのときバスに乗っていた22名の生徒たちのために、そして亡くなった白バイ隊員とご遺族のためにも、真実を訴えていくのが自分の責務だと思っています。そして、ドライバーやライダーの方々には、交通事故における「実刑(禁錮刑)」の現実を知っていただき、ぜひ安全な運転を心がけていただきたいと思います。

――ありがとうございました。