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”夫の死”は交通事故と因果関係なし? 初公判で一転、加害者の信じがたい主張に打ちのめされて…

2025.5.20(火)

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”夫の死”は交通事故と因果関係なし? 初公判で一転、加害者の信じがたい主張に打ちのめされて…

■雨の中、仕事帰りの私を迎えに来てくれた主人が……

「あの日の夕方、主人は私を迎えに自宅近くのバス停に向かっていました。『雨も降っているし、来なくてもいいよ』そう言ったのですが、買い物の荷物を持ってあげようと思っていたようです。でも、バス停に着いたとき主人の姿がなかったので、『来なかったのかな?』と思いながら、何気なく交差点の方を見ると、道路に倒れている人の靴が見えました。ハッとして駆け寄ると、すぐに主人だとわかりました」

 横浜市の江口和技(かずえ)さんは、振り返ります。

 2023年11月10日、午後6時過ぎ、事故は横浜市青葉区美しが丘の交差点で発生しました。近くに住む江口文明さん(59)が青信号で横断歩道を渡っているとき、背後から右折してきた乗用車(ランドクルーザープラド)にはねられたのです。運転していたのは、同じ町内に住む52歳(当時)の女性でした。

「私が駆け付けると、すでに6~7人の方々が冷たい雨の中、アスファルトの上に倒れていた主人に傘をさしかけ、救護してくださっていました。どなたかはご自身のジャンパーを頭の下に敷いてくださり、周囲の車を誘導している方もおられました。また、現場前の歯科医院のスタッフの方は、タオルをたくさん持って出てきてくださいました」

自宅近くにある事故現場の交差点。文明さんは青信号で横断歩道を渡っているとき、右折車に衝突された(遺族提供)

自宅近くにある事故現場の交差点。文明さんは青信号で横断歩道を渡っているとき、右折車に衝突された(遺族提供)

 道路上に横たわっていた文明さんは何度も起き上がろうとしていました。しかし、立ち上がることはできず、とても苦しそうでした。偶然通りかかった訪問看護師の女性は、「頭を打っているかもしれないので、動かないように」と何度も制止していたといいます。

「まもなく救急車が到着し、私も一緒に乗り込みました。主人は当初、救急隊員の呼びかけに応じ、しきりに『足が痛い……』と訴えていたのですが、次第に返答がおかしくなり、救急車の中で2度嘔吐しました。私は、『やはり頭を打ったのだ』と思い、怖くなりましたが、このときはまさか、主人の声を二度と聞けなくなるなんて、想像もしていませんでした」

 救急病院に到着した文明さんは、頭蓋骨骨折、脳挫傷、腓骨脛骨骨折のほか、全身に打撲の重傷を負っていることが判明しました。事故の連絡を受けた長女の枝里さん(当時28)、長男の治孝さん(当時24)も、相次いで病院へ駆けつけましたが、すでに文明さんの意識はなく、話すことはできませんでした。

「処置を受けた後、運ばれてきた主人の姿はひどいものでした。額の上部が腫れ上がり、おでこが2倍に長く見えました。脚は、太い骨がポッキリと折れて赤く腫れ、その痛みはどれほどのものかと胸が張り裂けそうになりました」

 翌日、容態が悪化したため、急遽、開頭手術を受けることになりました。しかし、文明さんは一度も目を覚ますことなく、事故翌日の11月11日、午後9時過ぎ、息を引き取ったのです。

「私たちはあまりのことに、どうしてよいかわかりませんでした。病院のベンチで、3人寄り添い、ただただ泣きました。それからしばらくは、今が昼なのか、夜なのか、ご飯をいつ食べたかさえわからないような日々を過ごしました」

半年後に60歳の誕生日を迎えるはずだった文明さん。2人の子どもたちは父親の還暦祝いに旅行のプレゼントをしようと計画していたという(遺族提供)

半年後に60歳の誕生日を迎えるはずだった文明さん。2人の子どもたちは父親の還暦祝いに旅行のプレゼントをしようと計画していたという(遺族提供)

■ 「パパ、ありがとう。大好きだよ……」

 葬儀は、火葬場の都合で10日後となりました。最後まで家族のことを一番に考え、大切にしてくれたという文明さん。和技さんは安置されている夫のもとに毎日通いつめ、感謝の思いを込めて、自ら会葬御礼の文章をしたためました。

 食べること、野球、車、DIY、そして何より、家族が趣味のような人でした。自分のことよりも家族のことを優先し、いつも私たちのことを考えてくれるパパでした。

 子供たちはパパのことが大好きでしたよ。娘には美術や自然、生き物のおもしろみ。息子には野球と車の楽しさを教えてくれました。二人には素敵な財産となっているはずです。

 夫は嘘をつかない心の綺麗な人でした。足元の小さなアリにも気を配る気持ちの優しい人でした。さまざまなことがあったけれど、一家の大黒柱として30年もの間、頑張ってくれてありがとう。これからはゆっくり自分の好きなことをしてね。

 パパ、ありがとう、大好きだよ。

 最後の一行は、文明さんが荼毘に付される直前まで、娘の枝里さんが亡骸にすがり、繰り返し語りかけていた言葉でした。

 和技さんは涙をこらえながら語ります。

「あの日、主人は『ステーキが食べたい』と言ったので、私はリクエストに応え、会社の帰りにお肉を買っていたんです。それなのに、主人はお腹を空っぽにしたまま、寒い中、痛い思いをして、突然亡くなってしまいました。本当にかわいそうです。何より悲しいのは、現場や救急車の中で、私が『パパ!』と呼びかけたとき、一度も目を合わせてくれなかったことです。たとえ話せなくても、あのとき私がそばにいたことを主人がわかってくれていたら……、そう思いたいのですが、おそらくわかっていなかったでしょう。それがとてもつらいのです」

「家族が趣味」と言われるほど家族思いだった文明さん。誕生日にはどんなに遅くなっても、いつもそろってお祝いをしたという(遺族提供)

「家族が趣味」と言われるほど家族思いだった文明さん。誕生日にはどんなに遅くなっても、いつもそろってお祝いをしたという(遺族提供)

■初公判で死亡との因果関係を否定してきた被告だったが…

 その後、事故の処理は遅々として進みませんでした。自動車運転過失致死罪で起訴された山尾知恵被告の初公判がようやく横浜地裁で開かれたのは、事故から1年3ヶ月後、2025年2月18日のことでした。

 ところが、初公判で驚くべきことが起こったのです。和技さんはそのときのショックをこう語ります。

「実は、第1回公判で、加害者は『被害者の死亡と、事故の因果関係を争う。一部不同意』と言い出したのです。つまり、事故は起こしたけれど、主人を死に至らしめたことについては無罪だと」

 この日、傍聴席は満席でしたが、あまりに唐突な展開に、傍聴席からはどよめきが起こったと言います。

 文明さんはこの事故で、頭蓋骨骨折、脳挫傷などの重傷を負いました。和技さんは発生から短時間の間に、文明さんが意識不明となり、死亡するまでの様子をすぐそばで見ています。それなのになぜ、文明さんの「死」と、本件事故との因果関係がないと言えるのか……。

「にわかには信じられませんでした。一度は罪を認め、謝罪文まで送ってきていたというのに……。私たちは加害者のまさかの主張に大変驚き、体調を崩してしまうほど心をかき乱されました」(和技さん)

 被害者参加制度を使って刑事裁判に出廷していた和技さんら遺族は、被告側のこの主張に納得できず、あらかじめ開示請求をしていた病院のカルテを検察官に提出し、精査するよう要望したのでした。

■第2回公判では、不同意の主張をあっさり撤回

 それから約2か月後の4月21日、江口さんから事前に連絡を受けていた私は、横浜地裁に出向き、第2回公判を傍聴しました。

 初公判で一転、不同意と主張した被告。この日予定されていた被告人尋問で、文明さんの死と自身が起こした右折衝突事故との因果関係をどのように否定するのか、ぜひ聞きたいと思ったのです。

 ところがこの日、またしても信じられないことが起こりました。裁判の冒頭、被告側の弁護士はこう言ったのです。

「因果関係を争うことは撤回します。不同意は、同意に変更します」

 そして、黒いスーツを着て法廷中央の証言台に立った山尾被告は、遺族の方を向き、涙声でこう述べました。

「このたびは私の不注意な運転で、大切な江口様の命を奪ってしまい、ご遺族のお悲しみはどれだけ深いか、毎日、毎日、後悔しております。せめてもの償いとして、できるだけの賠償をさせていただきたいと思っております。江口様のご冥福を心よりお祈り申し上げます」

 傍聴席から一連のやり取りを見ていた私は、被告の涙と反省の言葉が空虚なものに感じられてなりませんでした。損害賠償は基本的に自動車保険で行うことになるでしょう。そもそも、文明さんを死に至らしめたことに対する後悔の言葉を切々と述べながら、つい2か月前の初公判で、なぜ「死亡との因果関係がない」と言いきれたのか……。

 公判の途中、検察官が被告に、「今回の事故で、あなたは死亡との因果関係はないと思っていたのですか?」と改めて問う場面がありました。しかし、裁判官は「今の認識を聞いてください」とその質問を制止したため、結局、被告本人の回答を聞くことはできませんでした。

 第2回公判を終えた和技さんは語ります。

「被告はこの日、あっさりと、『一部無罪』という主張を撤回してきました。私たち遺族の気持ちをかき乱すだけかき乱して、主人を失ったこの苦しみをどこまで軽んじるのかと、憤りを覚えました。初公判では、『被害者の命を奪った認識がない』などと言っておきながら、反省などできるのでしょうか。本当に失礼な態度を取られたと感じています」

刑事裁判が開かれている横浜地方裁判所(写真:アフロ)

刑事裁判が開かれている横浜地方裁判所(写真:アフロ)

■動画に残る最後の姿。あの交差点が「歩車分離信号」だったら……

 実は、加害車のドライブレコーダーには、本件事故の瞬間が記録されていました。初公判でその映像を二人の子どもたちと共に直視した和技さんはこう語ります。

「警察の捜査ではすっきりしない部分がたくさんあったので、やはり自分たちで真実に向き合わなければいけないと思い、見ることにしました。主人は傘をさして横断歩道を渡り、加害車に衝突された瞬間、『アッ』という表情で振り返るように、運転席の方を見ていました。加害者はその直前にブレーキを踏んだと供述していたようですが、映像を見る限りは、漫然運転というか、なぜここでブレーキを踏まないの? と思うような速度で、横断報道の方へスーッと車を進めていました」

 文明さんの最後の姿が映ったその映像は、まぶたの奥に焼き付き、ときに苦しいこともあります。しかし、和技さんは後悔はしていないといいます。

「この事故は、飲酒運転とか超高速度のスピード違反とか、いわゆる『悪質極まりない』という事故ではないかもしれません。それでも、こうして青信号を守って横断歩道を渡っている人が、時速20キロ弱の速度で命を奪われることがあるのだということを、多くの方に知っていただきたいと思っています。

 実は、私たちは最近、『歩車分離信号』の設置を求めて活動しておられる長谷智喜さん・かつゑさんご夫妻の存在を知りました。ご長男の元喜くん(当時11)は、青信号で横断歩道を横断中、左折ダンプに巻き込まれて亡くなったそうです。奇しくも、元喜くんが事故に遭われた11月11日は、主人が亡くなった日と同じです。これはただの偶然とは思えません。

 もちろん、事故は加害者の不注意が根本的な原因です。でも、もしあの交差点が歩車分離信号だったら、主人は悲惨な事故で亡くなることはなかったと思います。現在、歩車分離信号の普及率は全体のわずか4.2パーセントだそうですが、交差点での事故防止に有効であるにもかかわらず、この低さに驚きます。1日も早く全国に普及することを望むばかりです。

 主人が突然いなくなり、一周忌を過ぎた頃には寂しさがさらに強くなりました。本当にもういないんだと思うと、膝から崩れ落ちそうな、崩れ落ちたらそのまま起き上がれないような、そんな悲しみがずっと続いています。私にはまだ社会的なことを考える余裕はありませんが、車は走る鉄の塊、凶器になります。今回、主人の事故を記事にしていただくことで、少しでも多くの方にこうした事故の危険性、そして、被害者が置かれる過酷で理不尽な状況を知っていただき、悲しい出来事を減らすことにつながればと強く願っています」

 あの日、楽しみにしていた夕食をとることができないまま亡くなった文明さん。和技さんは今も、月命日にはステーキを仏前に供えているといいます。

 3回目の公判は、1週間後の5月27日(火)10時15分から、横浜地裁で開かれる予定です。事故からすでに1年半、遺族を翻弄した刑事裁判は、今も続いています。

学生時代に知り合い、ずっと一緒だったという文明さんと妻の和技さん。最後となった夜桜をバックに(遺族提供)

学生時代に知り合い、ずっと一緒だったという文明さんと妻の和技さん。最後となった夜桜をバックに(遺族提供)