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「青信号で横断した娘がなぜ」愛娘の遺体と撮った最後の家族写真

信号無視で罪なき愛娘の命奪った運転手、その不誠実さに遺族憤怒

2021.11.15(月)

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「青信号で横断した娘がなぜ」愛娘の遺体と撮った最後の家族写真

 横断歩道を横断中の歩行者が、車にはねられる事故が相次いでいる。

 11月4日朝、岡山県総社市で起こった事故。直後の現場で「ママー、ママー」と、子どもが泣き叫んでいたという報道にショックを受けた人は多いだろう。本件では、幼稚園に向かう2組の母子が信号無視の車にはねられ、4歳女児と別の女児の母親が頭を強く打って意識不明の重体に。4歳女児の母親は骨盤骨折などの重傷を負い、もう一人の女児は軽傷を負ったという。

〈乗用車突っ込み女児ら4人はねる 2人が重体 岡山・総社(毎日新聞 :mainichi.jp)〉https://mainichi.jp/articles/20211104/k00/00m/040/048000c

 信号無視をした運転手は「居眠りをしていた」と供述しているそうだが、青信号を守って横断している歩行者にとってはどうすることもできない一方的な被害だ。

 また、11月7日には、愛知県安城市で飲酒運転の車が横断歩道に突っ込み、ベビーカーを押していた母親がけがをした。幸い、2歳の息子と4歳の娘にけがはなかったというが、1秒ずれていたら・・・、と思うと、やりきれない。

〈息子乗せたベビーカー押し4歳娘と歩いていた母親 横断歩道で車にはねられる 男「酒飲んでいて覚えてない」(東海テレビ)〉https://www.tokai-tv.com/tokainews/article_20211111_13426

 ちなみに、愛知県では横断歩道での事故を防ぐため、3年前から毎月11日を「横断歩道の日」と定めている。特に11月11日は、「11」がふたつ並ぶことから県警が事故防止の呼びかけに力を入れており、道行く歩行者に反射材を配布したという。しかし、いくら歩行者が反射板を身に付け、青信号を守って横断しても、信号無視の車に突っ込まれたらどうすることもできないだろう。

横断歩道上で奪われた愛娘の命

 安全なはずの横断歩道で、突然、大切な家族の命を奪われる・・・、加害者による極めて危険な運転によって平穏な暮らしを断ち切られた人々は、事故後、その理不尽な出来事にどう向き合い、また赤信号無視という危険運転はどう裁かれているのだろうか。

 2020年3月14日、葛飾区四つ木五丁目の交差点を父娘で横断中、赤信号無視の軽ワンボックス車にはねられた波多野暁生さん(44)は語る。

「私は衝突の衝撃でその瞬間の記憶がなく、意識を取り戻したとき、何が起こっているのかとっさに理解ができませんでした。ただ、自分の身体が血にまみれ、動かなくなっていたので、一緒に横断歩道を歩いていたひとり娘の耀子(ようこ・当時11歳)も相当な重傷を負っているのではないか、とは思いました。でも、まさか死んでしまうなんて・・・、とても想像はできませんでした」

 暁生さんと共に横断歩道を渡っていた耀子さんは、左側から突っ込んできた加害車に衝突されて車の下敷きになり、頸椎を骨折。搬送中の救急車の中で心肺停止状態となって死亡が確認された。

突然、命を奪われてしまった耀子さん(波多野さん提供)

突然、命を奪われてしまった耀子さん(波多野さん提供)

 一方、数メートル飛ばされた暁生さんは、左下腿の開放骨折の他、脾臓損傷、顔面骨折、顔面創傷などの重傷を負い、その後、意識不明の状態で、耀子さんとは別の病院に搬送され、緊急手術を受けることになった。

 手術後、朦朧とする意識の中で、暁生さんはうわごとのように『耀子は・・・、耀子は・・・』と、繰り返していたという。

 暁生さんが、耀子さんの死を告げられたのは、事故発生から2日後のことだった。

「もし、私と位置が左右逆だったら、娘は助かっていたかもしれない・・・、警察からそう説明され、娘を守ってやれなかったことが悔やまれてなりません。なにより、私たち夫婦は大切な娘の命を奪われたことで、自分たちの未来さえ失ってしまった気がするのです」

事故現場に立つ波多野さん夫妻(筆者撮影)

事故現場に立つ波多野さん夫妻(筆者撮影)

赤信号を認識して交差点に進入、危険運転で起訴された加害者

 現行犯逮捕されたのは、現場近くで運送業を営む高久浩二容疑者(68)だった。事故状況は加害車両のドライブレコーダーにも映っており、信号は停止線の約40メートル手前ですでに赤となっていた。つまり、この事故は信号の変わり目での交差点進入ではなかったのだ。

 高久容疑者の供述によると、前方の信号が赤だと認識していたにもかかわらず、意図的に無視して時速約57キロで交差点に進入、横断歩道を歩いてくる波多野さん親子に気づかず衝突したという。

 なぜ、赤信号なのに停止しなかったのか? その理由については、

「交差点の先の左の路肩に駐車車両が見えた。自車線をそのまま進めばその車を避けなければならない。日ごろから右へ車線変更するのが苦手だったので、他の車が赤信号で止まっているうちに先へ進み、車線変更をしてしまおうと思った」

 という内容のにわかに信じられないものだった。

事故現場の交差点(筆者撮影)

事故現場の交差点(筆者撮影)

「過失運転致死傷」の容疑で送検された高久容疑者は、事故から1年以上経過した2021年3月31日、交通事故としてはもっとも量刑の重い「危険運転致死傷」で在宅起訴された。

 危険運転致死傷罪の条文には、『赤色信号又はこれに相当する信号を殊更に無視し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為』と記されている。つまり東京地検は、今回の高久容疑者の行為は「殊更に(信号を)無視」に当たると判断したことになる。危険運転致死傷罪は裁判員裁判となり、6月から公判前整理手続きが行われている。

初公判直前、異例の期日取り消しに疑問

 ところが、11月19日に東京地裁で予定されていた初公判の期日が、11月に入って突然取り消しとなり、来年に延期されることになったのだという。

「こんなことが許されるのでしょうか。被告側の弁護人は書面提出期日を守らないことが度々あり、裁判の迅速化という制度趣旨を遵守しているとは思えませんでした。挙句の果てに、予定されていた初公判の期日も、被告側の身勝手な主張によって公判前整理手続きに不調をきたしたようで、結局、大幅に延期となりました。しかし、我々被害者遺族は何も文句が言えず、ただ振り回され、耐え続けなければならないのです」

 現時点で、すでに事件発生から1年8カ月が経過している。暁生さんは待ち続けなければならない苦しみをこう語る。

「起訴されるまで事件から1年、起訴されてから初公判までまた1年・・・、結局2年もの月日が経ってから裁判が開かれるなど、あまりに時間がかかり過ぎではないでしょうか。被告は在宅起訴なので、その間、日常の生活が送れます。一方、我々被害者遺族は、常にキリキリとした気持ちに苛まれながら、それでも静かに、理性的に待ち続けなくてはならないのです」

 公判前整理手続きという制度は、『充実した公判の審理を、継続的、計画的かつ迅速に行うことができるように』との目的でつくられたはずだ。今回のように、被害者側に何の落ち度もない事故であっても、いざ「危険運転致死傷罪」で起訴されると、裁判が長期化するケースが少なくないのが現状だ。

「我々の場合、全くもって常識では考えられないような運転操作によって信号無視が引き起こされ、今回の事件が発生しています。しかし、この1年8カ月、被告からの直接の謝罪は一切なく、本人が自ら事件と向き合い、真摯に反省している様子は全く伝わってきません。現実に、これほど悪質な事件なのに、未だに罰を与えられないままなのです。おそらく、飲酒ひき逃げや、制御困難な高速度での事件も、危険運転の構成要件がわかりにく過ぎて、長年苦しんでいる被害者遺族は多いのではないでしょうか」(暁生さん)

波多野さん夫妻にとって何よりの宝だった耀子さん(波多野さん提供)

波多野さん夫妻にとって何よりの宝だった耀子さん(波多野さん提供)

家族3人で撮った最後の家族写真

 冒頭の写真は、事故から5日後、耀子さんの遺体とともに撮影された、最後の家族写真だ。

 手術直後だった暁生さんは、医師から「今の容態では通夜や葬儀に参列することは難しい」と言われていた。しかし、そうなれば、家族3人で一緒に過ごす時間は、永遠になくなってしまう。

『せめて一目でいいから、耀子とパパを会わせてあげたい・・・』

 母親の切実な思いに応えた警察は、葬儀社、病院と連携をはかり、耀子さんの遺体を暁生さんの入院先まで運んだ。そして、なんとか最後の対面の時間を取ることができ、警察官が撮影してくれたのだという。

 今回、あえてこの写真を公開して訴えようと決意した理由について、波多野さん夫妻はこう語った。

「実は、事件から1年後、一度この写真を公開したことがあるのですが、今回、再度見ていただきたいと思ったのは、赤信号無視による悲惨な事件が相次ぐ中、一人でも多くの方に、横断歩道上の事故がいかに危険であるか、そして無防備な歩行者がどれほどひどい被害に遭うかを知っていただきたかったからです。耀子はもう帰ってきません。あの笑顔にはもう二度と会えませんが、とても正義感にあふれていた娘ですから、きっと同じことを思っていると信じています。あまりに理不尽なかたちで命を奪われてしまった娘のためにも、我々は生きて、いつか報告できるよう、引き続き訴えていきたいと思います」