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今年も東大合格首位の開成、富士市と協定結んだ理由

『開成をつくった男、佐野鼎』を辿る旅(第51回)

2021.4.20(火)

JBPress記事はこちら

今年も東大合格首位の開成、富士市と協定結んだ理由

 新型コロナウイルスが日本に上陸してから2度目の受験シーズンが到来しました。受験生とそのご家族にとっては、日々、大変な緊張の連続だったことでしょう。

 そんな中でも、この時期になると注目を集めるのが、「東大合格者数の高校別ランキング」ですね。

 ちなみに、2021年の結果は、以下の通りでした。

  • 1位 開成      144名
  • 2位 灘       97名
  • 3位 筑波大附駒場  89名
  • 4位 麻布      85名
  • 5位 聖光学院    79名

 2位以下の高校は毎年順位が変動するものの、1位の開成は40年間にわたって首位独占、不動の地位を築いてきたのです。

幕末に2度の世界一周

 ペンと剣のシンボルマークとともに、「質実剛健」「文武両道」の男子校として全国にその名を知られている開成。この学園の創立者こそが、本連載の主人公である『開成をつくった男、佐野鼎(さのかなえ)』です。

 佐野鼎が学校をつくったのは、今から150年前、1871(明治4年)にさかのぼります。正確に言うと、当時は「共立(きょうりゅう)学校」という名称でした。

 共立学校設立までの経緯や佐野の人物像については、本連載の第1回目、JBPress <昔は男女共学だった開成高校、知られざる設立物語 『開成をつくった男、佐野鼎』を辿る旅(第1回)>にも書いた通りです。

 彼は幕末、幕府が派遣した「万延元年遣米使節団」(1860年)、「文久遣欧使節団」(1862年)の随員として、外国の蒸気船に乗って海を渡りました。まだ鎖国中だった当時、連続で2度の世界一周を体験した日本人はわずか6人で、佐野鼎はそのうちの1人だったのです。

 佐野鼎は遣米使節団の一員としてアメリカを訪れたとき、詳細な『訪米日記』を書き残していました。この日記を読むと、彼が明治に入ってから教育を志した原点が、アメリカで視察した教育制度にあったのだということがよくわかります。

 ところが、学校創立からわずか6年後、佐野鼎は、当時の流行病であるコレラにかかり、発症からわずか2日で息を引き取ってしまいます。

 校主を失った共立学校は、たちまち経営難に陥ってしまいました。

 そこへ佐野の後任としてやってきたのが、アメリカ暮らしの経験がある高橋是清(後の内閣総理大臣)でした。

 高橋を校長に迎えた共立学校は、「大学予備門」(東京大学への予備機関)への進学者のための寄宿制学校として、男子生徒を集めるようになったのです。

 校名が現在の「開成学園」に変更されたのは、明治28年のことです。御茶ノ水にあった校舎はその後、関東大震災によって焼失してしまったため、学校は西日暮里へと移転しました。しかし、校舎は焼けても、創立者である佐野鼎が掲げた「建学の精神」はその後も脈々と受け継がれ、日本屈指の名門校として今年で創立150周年を迎えることになったのです。

『幕末の偉人・佐野鼎が生まれたまち富士市』

 そんな記念すべき2021年、開成学園と富士市が、「連携協定」を締結することになりました。開成学園が自治体と協定を結ぶのはこれが初めてのことだそうですが、その理由は、佐野鼎の出身地が、駿河国富士郡水戸島(現在の静岡県富士市)であることに由来します。

静岡県富士市の佐野鼎の生誕地近くにある水戸島八幡神社。幼い頃の佐野もこの境内で遊んでいたかもしれない

静岡県富士市の佐野鼎の生誕地近くにある水戸島八幡神社。幼い頃の佐野もこの境内で遊んでいたかもしれない

静岡県富士市の佐野鼎の生誕地近くにある水戸島八幡神社。幼い頃の佐野もこの境内で遊んでいたかもしれない

 4月13日、開成学園の野水勉校長をはじめ、OBを中心に構成されている「佐野鼎研究会」、「静岡県東部開成会」の役員・会員らが見守る中、開成学園の丹呉泰健理事長と富士市の小長井義正市長が協定書を交わしました。

 小長井市長はこう述べました。

「開成学園創立150周年という節目に、縁を深めることができたのは大変嬉しく、意義深い。『幕末の偉人佐野鼎が生まれたまち富士市』として、その魅力を発信していきたい」

 一方、学園側の丹呉理事長は、

「佐野鼎先生が富士山を見ながら育ったと思うと感慨深い。今回締結された協定に基づき、幅広い活動を行い、地方創成や人材育成のために少しでも役に立ちたい」

 と伝えたそうです。

 今回締結された協定書には、『富士市と開成学園が連携し、それぞれの資源や機能などの活用を図りながら幅広い分野で相互に協力し、人材の育成に寄与することを目的とする』、そして連携協力事項として『教育・文化、佐野鼎に関する研究を通じた関係者等との人的交流の推進』などが掲げられています。

生誕地の富士市で知名度が低かった佐野鼎

 実は、佐野鼎は私の母方の先祖(分家筋)に当たる人物です。そうした関係もあって、私自身も「佐野鼎研究会」に入れていただき、開成OBの方々にも多大なご協力を得ながら、2018年の12月、Amazon:『開成をつくった男、佐野鼎』(講談社)という歴史小説をなんとか上梓することができたのです。

Amazon:開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著、講談社)

Amazon:開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著、講談社)

 佐野鼎は伝染病のコレラで亡くなったため、死後、身の回りの品や文献が焼かれてしまったらしく、本人が書き記したものはほとんど残されていませんでした。

 また、佐野鼎の出生地である富士市にも、目ぼしい史料はありませんでした。

 そうした状況下で取材調査を進めながら、少し残念に感じたのは、幕末にいち早く世界に目を向け、多くの業績を残した佐野鼎という人物の名が、彼の出身地である富士市でほとんど知られていないことでした。

 たしかに、佐野鼎は十代で江戸へ出て蘭学や砲術を学び、その後、加賀藩(現在の金沢)へ出仕しています。しかし、彼の優れた知能や人格形成の下地は、間違いなく雄大な富士山の裾野で過ごした少年時代に培われたものだと感じていたからです。

 それもあって、私はかねてから、まずは富士市の方々、そして富士市を訪れた旅人たちに、佐野鼎の存在を知ってほしいと思い続けてきたのです。

 そんな中、念願の大きなプロジェクトが実現することとなりました。

佐野鼎の顕彰碑、JR新富士駅前に

 佐野鼎研究会の代表で、開成学園OBの松平和也氏は語ります。

「開成学園創立150周年を記念して、佐野鼎先生の顕彰碑を建立することが決まりました。設置場所はJR新富士駅のすぐ前です。まもなく着工となり、まだ日程は決まっていませんが、コロナの様子も見据えつつ、今年の夏から秋にかけて除幕式を執り行う予定です。顕彰碑を通して、佐野鼎先生の偉大さを、さらに多くの多くの方に知っていただき、後世に伝えていくことができればと思っています」

 どのような顕彰碑が出来上がるのか、今から楽しみですが、完成した暁には、また本連載でご紹介できればと思っています。

 ちなみに、私の著書『開成をつくった男、佐野鼎』は、開成のOBの方々で結成されている「佐野鼎研究会」と「開成会」から、富士市内の図書館と小中学校地区まちづくりセンターなどに、150冊が寄贈されたそうです。

 また、開成学園では、『開成をつくった男、佐野鼎』が出版されてからというもの、毎年、新入学生全員に1冊ずつ贈呈しているとのことで、著者としてこれほど嬉しいことはありません。

 佐野鼎にとっても、富士山はきっと生涯にわたって心の故郷であったに違いありません。開成学園と富士市が「連携協定」を結んだことによって、この先どんな広がりが生まれるのか・・・。

 富士市が生んだ幕末の偉人・佐野鼎の生きざま、そして、佐野鼎が幕末期から確信していた、グローバルな視点で「学ぶ」ことの大切さが、多くの人たちに伝わっていくことを期待しています。

 

【新聞記事】

『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著・講談社)が富士市に150冊寄贈

 

【連載】

(第1回)昔は男女共学だった開成高校、知られざる設立物語

(第2回)NHK『いだてん』も妄信、勝海舟の「咸臨丸神話」

(第3回)子孫が米国で痛感、幕末「遣米使節団」の偉業

(第4回)今年も東大合格者数首位の開成、創始者もすごかった

(第5回)米国で博物館初体験、遣米使節が驚いた「人の干物」

(第6回)孝明天皇は6度も改元、幕末動乱期の「元号」事情

(第7回)日米友好の象徴「ワシントンの桜」、もう一つの物語

(第8回)佐野鼎も嫌気がさした? 長州閥の利益誘導体質

(第9回)日本初の「株式会社」、誰がつくった?

(第10回)幕末のサムライ、ハワイで初めて「馬車」を見る

(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!

(第12回)幕末の「ハワイレポート」、検証したら完璧だった

(第13回)NHKが「誤解与えた」咸臨丸神話、その後の顛末

(第14回)151年前の冤罪事件、小栗上野介・終焉の地訪問記

(第15回)加賀藩の採用候補に挙がっていた佐野鼎と大村益次郎

(第16回)幕末の武士が灼熱のパナマで知った氷入り葡萄酒の味

(第17回)遣米使節団に随行、俳人・加藤素毛が現地で詠んだ句

(第18回)江戸時代のパワハラ、下級従者が残した上司批判文

(第19回)「勝海舟記念館」開館! 日記に残る佐野と勝の接点

(第20回)米国女性から苦情!? 咸臨丸が用意した即席野外風呂

(第21回)江戸時代の算学は過酷な自然災害との格闘で発達した

(第22回)「小判流出を止めよ」、幕府が遣米使節に下した密命

(第23回)幕末、武士はいかにして英語をマスターしたのか?

(第24回)幕末に水洗トイレ初体験!驚き綴ったサムライの日記

(第25回)天狗党に武士の情けをかけた佐野鼎とひとつの「謎」

(第26回)幕末、アメリカの障害者教育に心打たれた日本人

(第27回)日本人の大航海、160年前の咸臨丸から始まった

(第28回)幕末、遣米使節が視察した東大設立の原点

(第29回)明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック

(第30回)幕末の侍が経験した「病と隣り合わせ」の決死の船旅

(第31回)幕末、感染症に「隔離」政策で挑んだ医師・関寛斎

(第32回)「黄熱病」の死体を運び続けたアメリカの大富豪

(第33回)幕末の日本も経験した「大地震後のパンデミック」

(第34回)コロナ対策に尽力「理化学研究所」と佐野鼎の接点

(第35回)セントラル・パークの「野戦病院化」を予測した武士

(第36回)愛息に種痘を試し、感染症から藩民救った幕末の医師

(第37回)感染症が猛威振るったハワイで患者に人生捧げた神父

(第38回)伝染病対策の原点、明治初期の「コレラ感染届出書」

(第39回)幕末の武士が米国で目撃した「空を飛ぶ船」の報告記

(第40回)幕末の裏面史で活躍、名も無き漂流民「音吉」の生涯

(第41回)井伊直弼ではなかった!開国を断行した人物

(第42回)ツナミの語源は津波、ならタイフーンの語源は台風?

(第43回)幕末のベストセラー『旅行用心集』、その衝撃の中身

(第44回)幕末、米大統領に会い初めて「選挙」を知った侍たち

(第45回)「鉄道の日」に紐解く、幕末に鉄道体験した侍の日記

(第46回)アメリカ大統領に初めて謁見した日本人は誰か

(第47回)江戸末期、米国で初めて将棋を指してみせた日本人

(第48回)「はやぶさ2」の快挙に思う、幕末に訪米した侍の志

(第49回)江戸で流行のコレラから民を守ったヤマサ醤油七代目

(第50回)渋沢栄一と上野に散った彰義隊、その意外な関係