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横須賀基地に残る幕臣・小栗忠順の巨大な功績、なのに最期は悲劇的な死が

『開成を作った男、佐野鼎』を辿る旅(第61回)

2022.12.8(木)

JBPress連載 第61回はこちら

横須賀基地に残る幕臣・小栗忠順の巨大な功績、なのに最期は悲劇的な死が

 この2年間、新型コロナウイルスの感染拡大によってさまざまなイベントが制限されてきましたが、米海軍横須賀基地では今年10月、3年ぶりに「ヨコスカフレンドシップデー」が開催されました。基地内が一般に開放され、夜には「よこすか開国花火大会」も行われ、市内は終日、多くの人で賑わいました。

 普段は入ることのできない基地内で、米海軍の巨大艦船を見学したり、アメリカンフードの屋台で楽しんだり……、しばし、アメリカ旅行の気分を味わった方もいらっしゃったのではないでしょうか。

 実は私も11月、横須賀基地内に入り、150年以上前に起工された日本最古の「第1号ドライドック」を見学してきました。(*ドライドック=船の検査や整備、修理等を行うために、ポンプで水を抜くことのできる巨大な施設)。

 そこで今回は、幕末から始まった米海軍横須賀基地の歴史と、第1号ドライドックの現在の姿、そして、本連載の主人公「開成をつくった男・佐野鼎(さのかなえ)」(1829~1877)と横須賀基地の意外な接点について振り返ってみたいと思います。

若き日の豊田佐吉も視察にきた横須賀製鉄所

 現在の米海軍横須賀基地には、もともと江戸幕府によって建設された「横須賀製鉄所」がありました。

 1860年、万延元年遣米使節としてアメリカのすぐれた造船技術を目の当たりにしていた幕臣・小栗忠順(おぐりただまさ)は、帰国後、「日本の近代化のためには大型船に対応した造船所が必要だ」と幕府に強く訴えました。幕府内部からは反対の声もありましたが、小栗はそれを押し切り、フランス人技師、フランソワ・レオンス・ヴェルニーの力を借りて、1865(慶応元)年、「横須賀製鉄所」の建設に着手したのです。

 それから数年の歳月を費やし、この地には大型船の修理が可能なドライドックのほか、最先端の工場が次々とつくられ、1871(明治4)年には「横須賀造船所」と改称。その後、日本の海軍施設として使われていましたが、1945(昭和20)年、第二次世界大戦に敗戦したことでアメリカに接収され、現在に至っています。

 幕末に横須賀製鉄所が作られた経緯と、この工場がいかに日本を助け、近代化に役立ったかについては、以前、本連載でも取り上げたとおりです。

(参考)東郷平八郎が「日露戦争の勝利は幕臣・小栗上野介のお陰」と感謝した理由 (https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/70174)

 明治期には「観光スポット」としても人気を集め、横須賀には全国各地から見学人が訪れました。今でいう観光用のパンフレット(絵図)も作られたほどでした。

明治17年に作られた「造船所手引草」。横須賀造船所の沿革や各種機械、三浦半島の名所などが掲載されていた(横須賀・ティボディエ邸で配布されたもの)

明治17年に作られた「造船所手引草」。横須賀造船所の沿革や各種機械、三浦半島の名所などが掲載されていた(横須賀・ティボディエ邸で配布されたもの)

「造船所手引草」の中身

「造船所手引草」の中身

 もちろん、多くの技術者たちも横須賀造船所を訪れ、最先端の設備を視察しました。

 明治19(1886)年には、トヨタグループの創業者である豊田佐吉(当時19歳)も、「何か発明したい」という志を持って友人と共に横須賀造船所を訪れたそうです。そして、大いに刺激を受け、その後の織機開発に役立てたと言われています。

横須賀製鉄所に大いに触発された佐野鼎

 実は佐野鼎も、豊田佐吉よりずっと前の幕末に、「加賀藩の家来」という立場で、まだ工事中だった横須賀製鉄所へ視察に出向いていました。

『続通信全覧』という史料には、1867(慶応3)年、当時の横須賀製鉄所首長であったヴェルニーに、以下のような文面をもって丁重な見学の申し入れを行っていたことが記録されています。

『松平加賀守家来別紙名前之もの、横須賀表機械据付け方は勿論、其外共一見而巳二而は会得難致簾は質問をも致し度相願、於政府承届候、其段京極主膳正(製鉄所御用掛若年寄京極高富)より其許江可申入旨被命たり、謹言』

「別紙」には、佐野鼎を筆頭に6名の加賀藩士の名前が記されています。

 西洋砲術や航海術の専門家であった佐野鼎は、この時期、加賀藩の領地である能登半島の七尾に、横須賀と同じような本格的な製鉄所(造船所)を造るべく、海外から各種機械を取り寄せるなど奔走していました。

 申し入れの文面を見ると、横須賀製鉄所で稼働していたスチームハンマーなど、大型機械の据え付け方や使用方法などについて、視察の折にいろいろと質問をしたことが推察されます。

 以下の写真は、「横須賀市自然・人文博物館」発行の冊子 『すべては製鉄所から始まったーMade in Japanの原点―』に掲載されている1867年当時の横須賀製鉄所で、造成中の第1号ドライドックを撮影したものです。

1867年、造成中の第1号ドライドック

1867年、造成中の第1号ドライドック

 当時、横須賀製鉄所を訪れた佐野鼎たちは、まさに工事中のこの現場に身を置き、日本初、日本最大のドライドックや各種工場を視察していたのです。

 ちなみに、この場所で行われていた山の掘削工事中に、大きな動物の化石が発掘されたのですが、それが後に、ドイツ人の地質学者・ナウマン氏によって「象の骨」と判明したことから、「ナウマンゾウ」と名付けられたことは有名なエピソードです。

ドライドック完成を見ずに斬首された小栗忠順

 さて、加賀藩(現在の金沢)からはるばる横須賀まで視察に出向いた佐野鼎ですが、彼が本格的なドライドックを見るのはこれが初めてではありませんでした。

 横須賀視察の7年前にあたる1860年、佐鼎は万延元年遣米使節の従者としてアメリカへ渡り、ワシントンの海軍工廠でドライドックを見学していました。つまり、小栗忠順とはこのとき、同じ船に乗り込んで約9か月間におよぶ地球1周の船旅をしながら、共にアメリカの造船所や製鉄所を目にしていたのです。

 アメリカの進んだ造船技術を目の当たりにした彼らは、日本の将来を見据え、国として工業力を上げる必要性を痛感しました。そして、「たとえ西洋の国々から艦船を購入したとしても、それらはいつか必ず故障する。そのとき、日本として船を造る技術を持っていなければ、修理すらできない」――そう考えた小栗は幕臣として横須賀に、そして佐野は加賀藩士として七尾に、それぞれ製鉄所(造船所)を造ろうと動き出したのです。

 しかし、江戸幕府はまもなく終焉を迎えます。

 1868年5月、地元の群馬県権田村に戻っていた小栗は、「叛逆の意図は明白」などと根拠のない言いがかりをつけられて斬首。悲願だった第1号ドライドックの完成を見ることなく、命を落とします。享年42……。どれほど無念だったことでしょう。

 しかし、小栗は横須賀基地で働くアメリカ人たちから、今も大変感謝されていると知ったとき、なんだか救われた気持ちになりました。

 現在、横須賀基地司令部の建物内部の白い壁には、小栗とフランス人技師・ヴェルニーの肖像画が、歴代の米海軍司令官の肖像写真よりも大きな額に入れられ、大切に掲げられています。

横須賀基地の海軍司令部の建物の中に掲げられた小栗とヴェルニーの写真(筆者撮影)

横須賀基地の海軍司令部の建物の中に掲げられた小栗とヴェルニーの写真(筆者撮影)

頓挫した「七尾製鉄所」の建設

 1867年の着工から4年の歳月をかけ、横須賀製鉄所の第1号ドライドックが完成したのは、小栗の死から3年後、1871(明治4)年のことでした。

 一方、七尾製鉄所の建設に取り組んでいた佐野鼎は、明治維新によって加賀藩が力を失ったことで、この大事業の断念を余儀なくされます。

 金沢を後にした佐野鼎が、現在の開成学園の前身である「共立学校」を東京・御茶ノ水に創立したのは、奇しくも横須賀製鉄所に第1号ドライドックが完成したのと同じ1871(明治4)年のことでした。

 敬愛してやまなかった小栗の理不尽な死、そして、横須賀製鉄所に続けと心血を注ぎ続けてきた七尾製鉄所の建設中止……。時代の大きなうねりの中、彼の心にはどのような思いが交錯していたのでしょう。

 佐野が外国から取り寄せていた蒸気ハンマーや各種大型機械類は、その後、兵庫に移送され、現在の川崎重工業の礎になっていることはあまり知られていない事実です。

いまも現役、日本最古のドライドック

 さて、レポートの最後に、今回念願叶って見学することができた第1号ドライドックの現在の姿をご覧ください。長さ134.5m、幅29m、深さ9m。実際に間近で見ると、その大きさに驚かされました。

 この石造りの堅牢な構造物は完成からすでに151年経っていますが、今も現役で、日米共同で使用されているとのことです。

完成から151年目を迎える今も、現役で稼働している第1号ドライドック(筆者撮影)

完成から151年目を迎える今も、現役で稼働している第1号ドライドック(筆者撮影)

こちらは第1号ドライドックの閘門(こうもん)(筆者撮影)

こちらは第1号ドライドックの閘門(こうもん)(筆者撮影)

 日本最古のドライドックの周囲をぐるりと歩き、ひとつひとつ丁寧につみあげられた石や閘門(こうもん)を見ながら、小栗が残したと伝えられている以下の言葉がよみがえりました。

「幕府の運命に限りがあっても、日本の運命に限りはない」

「同じ売家にしても、後の日本のために、土蔵付き売据えの方がよいではないか」

 はたして、小栗の魂が込められたこの第1号ドライドックを、佐野鼎は完成後に見たのでしょうか……。

 1877(明治10)年、コレラに罹患し、49歳で亡くなった佐野鼎の身の回り品は、その多くが焼却されたそうです。それもあってか、明治以降のそうした記録は、現時点で発見されていません。

『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著、講談社)

『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著、講談社)

 

【連載】

(第1回)昔は男女共学だった開成高校、知られざる設立物語

(第2回)NHK『いだてん』も妄信、勝海舟の「咸臨丸神話」

(第3回)子孫が米国で痛感、幕末「遣米使節団」の偉業

(第4回)今年も東大合格者数首位の開成、創始者もすごかった

(第5回)米国で博物館初体験、遣米使節が驚いた「人の干物」

(第6回)孝明天皇は6度も改元、幕末動乱期の「元号」事情

(第7回)日米友好の象徴「ワシントンの桜」、もう一つの物語

(第8回)佐野鼎も嫌気がさした? 長州閥の利益誘導体質

(第9回)日本初の「株式会社」、誰がつくった?

(第10回)幕末のサムライ、ハワイで初めて「馬車」を見る

(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!

(第12回)幕末の「ハワイレポート」、検証したら完璧だった

(第13回)NHKが「誤解与えた」咸臨丸神話、その後の顛末

(第14回)151年前の冤罪事件、小栗上野介・終焉の地訪問記

(第15回)加賀藩の採用候補に挙がっていた佐野鼎と大村益次郎

(第16回)幕末の武士が灼熱のパナマで知った氷入り葡萄酒の味

(第17回)遣米使節団に随行、俳人・加藤素毛が現地で詠んだ句

(第18回)江戸時代のパワハラ、下級従者が残した上司批判文

(第19回)「勝海舟記念館」開館! 日記に残る佐野と勝の接点

(第20回)米国女性から苦情!? 咸臨丸が用意した即席野外風呂

(第21回)江戸時代の算学は過酷な自然災害との格闘で発達した

(第22回)「小判流出を止めよ」、幕府が遣米使節に下した密命

(第23回)幕末、武士はいかにして英語をマスターしたのか?

(第24回)幕末に水洗トイレ初体験!驚き綴ったサムライの日記

(第25回)天狗党に武士の情けをかけた佐野鼎とひとつの「謎」

(第26回)幕末、アメリカの障害者教育に心打たれた日本人

(第27回)日本人の大航海、160年前の咸臨丸から始まった

(第28回)幕末、遣米使節が視察した東大設立の原点

(第29回)明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック

(第30回)幕末の侍が経験した「病と隣り合わせ」の決死の船旅

(第31回)幕末、感染症に「隔離」政策で挑んだ医師・関寛斎

(第32回)「黄熱病」の死体を運び続けたアメリカの大富豪

(第33回)幕末の日本も経験した「大地震後のパンデミック」

(第34回)コロナ対策に尽力「理化学研究所」と佐野鼎の接点

(第35回)セントラル・パークの「野戦病院化」を予測した武士

(第36回)愛息に種痘を試し、感染症から藩民救った幕末の医師

(第37回)感染症が猛威振るったハワイで患者に人生捧げた神父

(第38回)伝染病対策の原点、明治初期の「コレラ感染届出書」

(第39回)幕末の武士が米国で目撃した「空を飛ぶ船」の報告記

(第40回)幕末の裏面史で活躍、名も無き漂流民「音吉」の生涯

(第41回)井伊直弼ではなかった!開国を断行した人物

(第42回)ツナミの語源は津波、ならタイフーンの語源は台風?

(第43回)幕末のベストセラー『旅行用心集』、その衝撃の中身

(第44回)幕末、米大統領に会い初めて「選挙」を知った侍たち

(第45回)「鉄道の日」に紐解く、幕末に鉄道体験した侍の日記

(第46回)アメリカ大統領に初めて謁見した日本人は誰か

(第47回)江戸末期、米国で初めて将棋を指してみせた日本人

(第48回)「はやぶさ2」の快挙に思う、幕末に訪米した侍の志

(第49回)江戸で流行のコレラから民を守ったヤマサ醤油七代目

(第50回)渋沢栄一と上野に散った彰義隊、その意外な関係

(第51回)今年も東大合格首位の開成、富士市と協定結んだ理由

(第52回)幕末に初めて蛇口をひねった日本人、驚きつつも記した冷静な分析

(第53回)大河『青天を衝け』が描き切れなかった「天狗党」征伐の悲劇

(第54回)『青天を衝け』に登場の英公使パークス、七尾でも開港迫っていた

(第55回)「開成」創立者・佐野鼎の顕彰碑が富士市に建立

(第56回)「餅は最上の保存食」幕末、黒船の甲板で餅を焼いた日本人がいた

(第57回)遣欧使節の福沢諭吉や佐野鼎にシンガポールで教育の重要性説いた漂流日本人

(第58回)東郷平八郎が「日露戦争の勝利は幕臣・小栗上野介のお陰」と感謝した理由

(第59回)水害多発地域で必須の和算、開成学園創立者・佐野鼎も学んで磨いた理系の素養

(第60回)暴れ川・富士川に残る「人柱伝説」と暗闇に投げ松明が舞う「かりがね祭り」