大阪ベイエリア開発の先駆け、観光名所「天保山」を作ったのは幕末の遣米使節団のトップ新見正興の父だった
『開成を作った男、佐野鼎』を辿る旅(第70回)
2025.5.6(火)
開成学園の創始者であり、万延元年遣米使節、文久遣欧使節の随員として幕末に地球を2周した佐野鼎(かなえ)の足跡を、傍系子孫のノンフィクション作家・柳原三佳氏が辿る本連載。第70回は、万博会場でもある大阪ベイエリアで、天保時代に大規模な浚渫工事を手がけた大坂西町奉行・新見正路を取り上げる。
大阪の名所「天保山」は江戸時代につくられた人工山
何かと話題の尽きない大阪・関西万博ですが、4月13日に開幕してから早3週間が経過しました。準備が遅れていたインド館とブルネイ館も、ゴールデンウィーク中になんとかオープンにこぎつけ、あとは、工事費用の支払いが滞っているというネパール館の開館を待つのみです。
今回の会場となっている大阪湾の夢洲(ゆめしま)は、廃棄物の最終処分場としてつくられた人工島です。面積は約390ヘクタールで、甲子園球場約100個分の広さとのこと。着工は1970年代でしたが、その後、約50年の歳月を経て、今年1月、地下鉄「夢洲駅」が開業しました。
「大阪ベイエリア」と呼ばれているこの界隈には、「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」や「天保山マーケットプレイス」「海遊館」など、若者に人気のスポットがあり、新しい街というイメージを抱いている方も多いと思います。
でも実は、ベイエリア観光の中心的存在である「天保山(てんぽうざん)」は、江戸時代の後期につくられた「築山」であることをご存じでしょうか。
そこで今回は、本連載の主人公・佐野鼎と間接的なかかわりを持つ、ある人物の功績を取り上げながら、「大阪ベイエリア」開発の歴史を振り返ってみたいと思います。
現代の天保山といえば大観覧車や水族館「海遊館」が有名だ(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)
万延元年遣米使節団トップの玄孫との邂逅
日米修好通商条約の批准書を交換するため、幕府が派遣した「万延元年遣米使節団」。その随員のひとりとして佐野鼎(1829~1877)が渡米し、詳細な『訪米日記』を記していたことについては、本連載で何度も取り上げてきました。
このとき、海を渡った日本人は総勢77名だったのですが、そのトップ「正使」として大役を任されたのは、当時、外国奉行であった新見正興(しんみまさおき/1822~1869)という幕臣でした。
先日私は、新見正興の玄孫である新見正裕さんとともに、東京都内でご先祖ゆかりの史跡を散策しました。
新見家は徳川家康の時代から、将軍の側で幕府の要職を務めてきた名家の旗本です。佐野鼎は蘭学や西洋砲術に秀でた秀才ではありましたが、身分は決して高くなかったため、おそらく当時は将軍にお目見えできる立場の新見さまとは、直接お話することはできなかったはずです。
とはいえ、約9カ月間におよぶ地球一周の旅を、同じ米軍艦の中で過ごした仲間です。165年のときを経て、その子孫同志がこうして親しく交流していることに、ご先祖たちもきっと目を細めていることでしょう。
ワシントン海軍工廠を視察する遣米使節:前列左から、外国奉行支配両番格調役・塚原但馬守、外国奉行頭支配組頭・成瀬善四郎、副使・村垣淡路守、正使・新見豊前守、監察・小栗豊後守、勘定方組頭・森田岡太郎(Mathew Brady, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)
1860年、遣米使節のトップとして、幕末にワシントンのホワイトハウスを訪れ、アメリカのブキャナン大統領と堂々と対面した新見正興(当時38)。このときの副使は村垣範正(むらがきのりまさ)、目付は2027年NHK大河の主人公に決まった小栗忠順(おぐりただまさ)でした。
幕府はこの8年後に消滅しましたが、幕府から正式に命を受けて初めて異国の地を踏み、進んだ西洋文化に触れた彼らはその後、さまざまな分野で日本の近代化に大きな影響を与えたのでした。
万延元年遣米使節。左から副使・村垣範正、正使・新見正興、監察・小栗忠順(1860年)(Alexander Gardner, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)
新見正興と天保山の意外な関係
この日、新見正興の史跡をめぐりながら、正裕さんはふとこう語りました。
「幕末のあの時期、高祖父の正興は外国奉行として本当に多忙で、大変な日々を過ごしていたと思います。でも、私としては、正興の一代前、新見正路のこともぜひ多くの方に知っていただきたいと思っているんです」
「正興の父親にあたる方ですね」
「はい。実は正路の長男と次男は幼くして他界しており、甥の正興を養子に迎えました。ですから血縁上、正路は伯父にあたります」
「新見正路とは、どのような方だったのですか」
「大阪・関西万博の会場のすぐそばに、天保山という山がありますよね。あれは天保年間に大坂西町奉行だった正路が浚渫工事を行ったとき、河口の底からさらえた土砂を積み上げてできた築山なんです」
「えっ、天保山は、新見さんのご先祖が?」
「そうなんですよ」
22歳まで関西で過ごした私にとって、大阪の天保山はなじみ深い名称です。この港からフェリーに乗ったことも何度もあります。でも、天保山が築かれた経緯、ましてやその大事業に新見さんのご先祖が関わっていたとはまったく知らず、ただただ驚くばかりでした。
大坂西町奉行として指揮をとった「天保の大川浚」
ときは江戸時代後期の天保2(1831)年、今から194年前にさかのぼります。現在は「大阪」ですが、当時は「大坂」と表記していた時代でした。
この年、現在開催されている万博会場(夢洲)のすぐ東側の安治川(あじがわ)で、「天保の大川浚(おおかわざらえ)」と呼ばれる浚渫(しゅんせつ)工事が始まりました。「浚渫」とは、川や海の底の土砂をすくい取ること。当時、海から大坂市中へ大型船を運行するためには、川底にたまっていた大量の土砂を取り除く必要があったのです。
このときの工事ですくい取った土砂を積み上げてできたのが、あの「天保山」です。名前は、当時の元号にちなんでつけられたわけですね。
山、といっても標高はわずか4.53メートル。長きにわたって「日本一低い山」とされてきたのですが、2011年に発生した東日本大震災の影響で、宮城県仙台市の日和山の標高が変化したことから、現在は首位の座を奪われ「日本で2番目に低い山」となっています。
こうして振り返れば、江戸時代からすでに大阪湾では埋め立てによる人工の洲(しま)が作られていたということになるわけです。
天保山 (浪花百景) 1800年代。南粋亭芳雪/画(歌川芳雪, CC BY 4.0, ウィキメディア・コモンズ経由で)
さて、この一大事業を任されたのが、当時40歳の大坂西町奉行、新見正路(しんみまさみち/1791~1848)でした。正路は非常に優れた人物で、生活に苦しむ庶民に対して救済事業を行うなど、「名奉行」と呼ばれていたそうです。
また、正路は蔵書家としても知られており、邸内に「賜蘆(しろ)文庫」を設け、文人たちとの幅広い交流もありました。息子の正興もまた、和歌などに優れた才能を発揮していましたので、父の影響を受けていたのかもしれません。
正路は大坂西町奉行を辞した後、江戸に戻り、12代将軍・徳川家慶の御側御用取次(おそばごようとりつぎ)に就任しました。この役職は、まさに将軍の側近中の側近で、将軍と老中の取り次ぎ役でした。正路が将軍からどれほど厚い信頼を得ていたか、そして、幕府の中でいかに重要な要職に就いていたかがわかります。
また正路は、水野忠邦らと共に、かの有名な「天保の改革」にも参画したそうです。
かつての屋敷は田安門付近
正路にまつわるさまざまな話を伺いながら、皇居(元・江戸城)の堀端まで来たときです。正裕さんが、
「そうだ、昔、うちの家があった場所で、お茶でもしていきませんか」
と言われました。
「えっ、この近くに正路さんのお屋敷があったのですか?」
私がびっくりしてそう尋ねると、
「そうなんです。正路は将軍の御側御用取次でしたから、いつでもすぐに江戸城へ駆けつけられるよう、堀端に居を構えていたようですね」
千代田区の地図の前で、先祖の屋敷があったあたりを指さす正裕さん
そんな会話をしながら、少し歩いて案内されたのは、なんと、九段会館(旧軍人会館)ではありませんか。目の前には、お堀をはさんで日本武道館が見えます。
「先祖は九段会館や昭和館が建つちょうどこの辺りに住んでいました。もちろん、私は住んだことはありませんが、それでも、ここへきてお茶を飲むと、なんだかほっとするんですよね……」
まさか、皇居に隣接する九段会館の一帯が、新見さんの「昔のお家」だったとは……。
驚きながらも、ここで飲んだコーヒーは味わい深いものがありました。
かつて先祖のお屋敷はこのあたりに建っていたという、千代田区の九段会館&昭和館をバックに、正裕さん
1848年、新見正路は57歳でこの世を去り、正興が家督を継ぎます。そして、5年後の1853年、ペリー率いる黒船が来航し、1860年、外国奉行だった正興は、日本人として初めてアメリカ大統領に謁見する大役を果たすのです。
私の傍系先祖である佐野鼎は、このとき、新見正興を正使とする万延元年遣米使節団に、益頭駿次郎という幕臣の従者として参加していた、というわけなのです。
当時の仕事内容や出来事を詳細に綴った『新見正路日記』
正裕さんから、ご先祖である正路についてのお話を伺った私は、早速、2010年に出版された『大坂西町奉行新見正路日記』(薮田貫編著/清文堂出版)という分厚い本を入手しました。
筆文字が翻刻されているとはいえ、当時の文字で書かれているので、すべてを理解することはできないのですが、火事や殺人、捨て子や変死体処理、各種争いの裁判にいたるまで、さまざまな出来事への対応にあたっていることが見て取れます。当時の「お奉行様」の仕事は、本当に多岐にわたっていたのですね。
そんな多忙な日々の中で、正路はあの大規模な浚渫工事の指揮を取ったというのですから驚きです。
史料によれば、この工事には延べ10万人以上の労働力がつぎ込まれたとのこと。どうせなら楽しく作業しようということで、現場はお祭り騒ぎだったということです。
また、筆まめな正路は、緻密な日記を欠かさずつけており、その筆致にはただただ感服するばかりです。この『新見正路日記』は、当時の世情や旗本の生活を知るうえで、一級の史料と言われており、これからさらに研究が進んでいくことでしょう。
正路の写真は残念ながら残っておらず、子孫である正裕さんのご自宅には、以下の肖像画が掛け軸として保管されているそうです。
正路の肖像画(新見正裕氏所蔵)
ちなみに、「西町奉行所跡」は大阪市顕彰史跡に指定されています(中央区本町橋2 マイドームおおさか前)。
大坂西町奉行の跡地に建てられた石碑(新見氏提供)
というわけで、これから大阪・関西万博へ行かれる方は、大阪メトロ「夢洲」駅から2駅先の「大阪港」駅を出てすぐの天保山に、こうした歴史があったこと、そして新見正路という名奉行がいたことを思い出してみてくださいね。
【連載】
(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!
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(第17回)遣米使節団に随行、俳人・加藤素毛が現地で詠んだ句
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