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50万人の群衆!164年前の米国人が熱狂、訪米した「サムライ」の歓迎特大パレード

『開成を作った男、佐野鼎』を辿る旅(第63回)

2024.4.19(金)

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50万人の群衆!164年前の米国人が熱狂、訪米した「サムライ」の歓迎特大パレード

サムライ見たさに詰めかけた50万人

 4月15日、午後7時から放映された『クイズプレゼンバラエティーQさま!!』(テレビ朝日)。この日は、「カメラ誕生200年! 写真に残る歴史の決定的瞬間 BEST15から出題3時間スペシャル」と題して、歴史的な人物や出来事を収めた数々の興味深い古写真が公開され、それぞれのエピソードについてのクイズが出題されました。

 実は、この日紹介された決定的瞬間写真の中に、幕末から明治初期を生きた本連載の主人公「開成をつくった男 佐野鼎(かなえ)」も登場していました。その一枚は、「アメリカでまさかの侍フィーバー」と題して、ベスト2に輝いた以下の写真です。

1860年、ブロードウェイで撮影された日本人使節の歓迎パレード(ナタリア・ドーン氏提供)

1860年、ブロードウェイで撮影された日本人使節の歓迎パレード(ナタリア・ドーン氏提供)

 これは、今から164年前の1860年、アメリカ・ニューヨークのブロードウェイで行われた盛大な歓迎パレードの瞬間を撮影したものです。番組では「当時のアメリカ国民は日本人を見た経験がなく、日本刀を携えたサムライを一目見ようと、およそ50万人もの市民が訪れた」と解説していました。

 これは、今から164年前の1860年、アメリカ・ニューヨークのブロードウェイで行われた盛大な歓迎パレードの瞬間を撮影したものです。番組では「当時のアメリカ国民は日本人を見た経験がなく、日本刀を携えたサムライを一目見ようと、およそ50万人もの市民が訪れた」と解説していました。

 それにしても、1860年といえば日本はまだ江戸時代です。その当時に、俯瞰でこのような鮮明な写真が撮影され、当時の様子を今に伝えてくれているのですから驚きです。

日本にとって初の公式外交

 ところで、ニッポンの侍たちはなぜこの日、ニューヨークにいたのでしょうか。「一般社団法人 万延元年遣米使節子孫の会」のサイトから、その解説文を紹介したいと思います。

 明治維新を8年後に控えた1860年(万延元年)。江戸幕府は初代駐日総領事・ハリスの勧めもあり、正使の新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)、副使の村垣淡路守範正(むらがきあわじのかみのりまさ)、目付の小栗豊後守忠順(おぐりぶんごのかみただまさ)をはじめとする77人の若き使節団を米国に派遣しました。

 その主目的は、「日米修好通商条約」の批准書交換でした。250年もの長きにわたって続いた「鎖国」が解かれてから6年、彼らの渡米は日本にとってまさに初めての公式外交であり、外国の文化や文明との本格的な接触の機会となったのです。

 以下の写真は、使節団がワシントンのネイビーヤード(海軍工廠)に到着したときに撮影されたものです。

ワシントン海軍工廠での使節団:右から2人目が小栗、3人目が新見、4人目が村垣(Mathew Brady, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)

ワシントン海軍工廠での使節団:右から2人目が小栗、3人目が新見、4人目が村垣(Mathew Brady, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)

 当時加賀藩士だった佐野鼎は「従者」という立場でしたから、重鎮たちが並ぶこの写真には写っていませんが、彼も77人の使節の一人として、ワシントンからニューヨークへと移動し、あの日、馬車仕立ての盛大な歓迎パレードの中に身を置いていたのです。

 ちなみに、冒頭で紹介した番組「Qさま!!」では、遣米使節が福沢諭吉の写真とともに紹介されていましたが、福沢は幕府が派遣した77人の正式な使節団とは別に、護衛船の位置付けだった「咸臨丸」で勝海舟らとともに太平洋を横断し、サンフランシスコに到着してから日本に引き返しています。ですから、ワシントンやニューヨークは訪問しておらず、このパレードには参加していないということになります。

Welcome Japanese Embassy

 50万人ものニューヨーク市民が大興奮の渦に巻き込まれたサムライたちの歓迎パレードは、ダウンタウンからユニオン・スクエアへ向かって行進し、最終地点では軍による閲兵式も行われました。夜にはニューヨーク市が主催するレセプションやダンスパーティーも開催され、ニューヨークタイムスをはじめとする多くのメディアが取り上げました。

 一方、歓迎を受けた日本人使節たちの目には、初めて訪れた異国の地のこの光景がいったいどのように映ったのでしょうか。

 佐野鼎は自身が記録した『万延元年訪米日記』の中に、以下のように書き記しています。

『市中の家屋は各戸商売を止め、日の丸の付きたる旗と米国の旗と並立せしめ、ウエルコム・ヂアツパネイズ・エムバッセイ(甚だ善き日本使節の到着といへる義なり)と大書し、男女老幼を論せず、各白き片布を振りて祝辞を唱ふ。その群衆、さながら江戸表の山王権現、又は神田明神の祭礼のときに練りものを見学するがごとくにして、群衆はヒレドルヒヤ府に十倍す。』

 以下に現代語訳も併せて紹介します。

『街中の商店は店を閉じて、日の丸と米国国旗を飾り、ウエルカム・ジャパニーズ・エンバシィーと大書して、老若男女を問わず白い布きれ(ハンカチ)を振って、歓呼して迎えてくれた。その有様は、まるで江戸の山王権現や神田明神の祭礼で練りものを見物するようで、フィラデルフィアの10倍の群集が集まっていた。』(内藤徹雄訳/佐野鼎遺稿「万延元年訪米日記」を読む その2 より抜粋)

 佐野鼎は、ニューヨーク市民の大歓迎を見ながら、逆に日本を思い出し、「山王権現」や「神田明神」の祭りを見物しているような気分になっていたというのですから、なんとも微笑ましいですね。

一晩でワイン5000本が開くほどの賑わい

 この後、使節団一行は、ニューヨーク州知事や市長と会見。セントラルパークをはじめ、市中の視察を行いました。翌日付けのニューヨーク・トリビューン紙には、使節団全員の名前と地位や役職、人物像なども紹介されていたといい、佐野鼎も「ニウスペーパー」による情報発信の早さに大変驚いたようです。

遣米使節団が訪問したニューヨーク市庁舎は、今もその姿を残している(筆者撮影)

遣米使節団が訪問したニューヨーク市庁舎は、今もその姿を残している(筆者撮影)

 また、ニューヨーク市内では日本人使節に関する演劇や歌が上演され、「Japanese」と名づけられたカクテルが大人気になったり、日本にちなんだ土産物が売られたりしたそうです。佐野鼎はそうした状況についても、以下のように、日記に具体的に記していました。

『ニューヨーク滞在中にホテルの裏庭の傍らに芝居の舞台があって毎晩興行があり、見物客で賑わっていた。この興行は日本人に見せるためであったという。この地を出発する日が間近になった或る日、大芝居が開催されたが、その費用は3万ドルかかったという。夕方から始まり徹夜になり、フランス産葡萄酒が一晩で5千瓶余り飲まれたという。興行前日より見物するため数百里四方の遠方からニューヨークに大勢の人々がやってきた。この興行の費用は全て市の負担であるという。ある夜、花火が上がったが、フィラデルフィアの花火と同じで大変壮麗であった。』(内藤徹雄訳/佐野鼎遺稿「万延元年訪米日記」を読む その2 より抜粋)

 なんと、一晩でワインが5000本も消費されたとは……。

 使節団一行は、ニューヨークに13日間滞在したとのことですが、使節たちはブロードウェイで華やかな花火を見上げながら、徹夜で芝居を見たり、美味しいワインに舌鼓を打ったりしたのでしょうか。

 もちろん、彼らはニューヨーク市内の視察も欠かしませんでした。佐野鼎はこの地でアメリカ人に聾学校や盲学校を案内してもらい、初めて障害者教育の重要性を知ります。日記の中には、そのことも記しています。

 万延元年遣米使節のことは、教科書に出ていなかったこともあり、あまり知られていないようです。しかし、このときの彼らの体験が、実は維新後の日本の近代国家への歩みに大きな影響を与えているという事実を、ぜひ知っていただきたいと思います。

米国と欧州、どちらにも派遣された佐野鼎

 さて、「Qさま!!」ではニューヨークの写真が紹介された後、埃及(エジプト)、新加坡(シンガポール)、葡萄牙(ポルトガル)の読みがクイズで出され、福沢諭吉らが「文久遣欧使節」(1862年)のひとりとして、これらの国々に足跡を残したことも紹介されました。

 実は、「開成をつくった男 佐野鼎」も、福沢諭吉とともに文久遣欧使節に参加していました。拙著『開成をつくった男 佐野鼎』(柳原三佳著/講談社)の表紙の写真は、この旅でフランスに滞在中、パリの写真館で撮影されたものです。

『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著、講談社)

『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著、講談社)

 ちなみに、万延元年遣米使節、文久遣欧使節、この2つの使節団に参加して、幕末に地球を2周した経験を持つ日本人は、佐野鼎を含めて5名だけです(福沢諭吉は含まれていません)。

「文久遣欧使節」とはどのような行程で、何か国に足を踏み入れたのか……。次回はそのときの興味深いエピソードをご紹介できればと思います。

 

【連載】

(第1回)昔は男女共学だった開成高校、知られざる設立物語

(第2回)NHK『いだてん』も妄信、勝海舟の「咸臨丸神話」

(第3回)子孫が米国で痛感、幕末「遣米使節団」の偉業

(第4回)今年も東大合格者数首位の開成、創始者もすごかった

(第5回)米国で博物館初体験、遣米使節が驚いた「人の干物」

(第6回)孝明天皇は6度も改元、幕末動乱期の「元号」事情

(第7回)日米友好の象徴「ワシントンの桜」、もう一つの物語

(第8回)佐野鼎も嫌気がさした? 長州閥の利益誘導体質

(第9回)日本初の「株式会社」、誰がつくった?

(第10回)幕末のサムライ、ハワイで初めて「馬車」を見る

(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!

(第12回)幕末の「ハワイレポート」、検証したら完璧だった

(第13回)NHKが「誤解与えた」咸臨丸神話、その後の顛末

(第14回)151年前の冤罪事件、小栗上野介・終焉の地訪問記

(第15回)加賀藩の採用候補に挙がっていた佐野鼎と大村益次郎

(第16回)幕末の武士が灼熱のパナマで知った氷入り葡萄酒の味

(第17回)遣米使節団に随行、俳人・加藤素毛が現地で詠んだ句

(第18回)江戸時代のパワハラ、下級従者が残した上司批判文

(第19回)「勝海舟記念館」開館! 日記に残る佐野と勝の接点

(第20回)米国女性から苦情!? 咸臨丸が用意した即席野外風呂

(第21回)江戸時代の算学は過酷な自然災害との格闘で発達した

(第22回)「小判流出を止めよ」、幕府が遣米使節に下した密命

(第23回)幕末、武士はいかにして英語をマスターしたのか?

(第24回)幕末に水洗トイレ初体験!驚き綴ったサムライの日記

(第25回)天狗党に武士の情けをかけた佐野鼎とひとつの「謎」

(第26回)幕末、アメリカの障害者教育に心打たれた日本人

(第27回)日本人の大航海、160年前の咸臨丸から始まった

(第28回)幕末、遣米使節が視察した東大設立の原点

(第29回)明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック

(第30回)幕末の侍が経験した「病と隣り合わせ」の決死の船旅

(第31回)幕末、感染症に「隔離」政策で挑んだ医師・関寛斎

(第32回)「黄熱病」の死体を運び続けたアメリカの大富豪

(第33回)幕末の日本も経験した「大地震後のパンデミック」

(第34回)コロナ対策に尽力「理化学研究所」と佐野鼎の接点

(第35回)セントラル・パークの「野戦病院化」を予測した武士

(第36回)愛息に種痘を試し、感染症から藩民救った幕末の医師

(第37回)感染症が猛威振るったハワイで患者に人生捧げた神父

(第38回)伝染病対策の原点、明治初期の「コレラ感染届出書」

(第39回)幕末の武士が米国で目撃した「空を飛ぶ船」の報告記

(第40回)幕末の裏面史で活躍、名も無き漂流民「音吉」の生涯

(第41回)井伊直弼ではなかった!開国を断行した人物

(第42回)ツナミの語源は津波、ならタイフーンの語源は台風?

(第43回)幕末のベストセラー『旅行用心集』、その衝撃の中身

(第44回)幕末、米大統領に会い初めて「選挙」を知った侍たち

(第45回)「鉄道の日」に紐解く、幕末に鉄道体験した侍の日記

(第46回)アメリカ大統領に初めて謁見した日本人は誰か

(第47回)江戸末期、米国で初めて将棋を指してみせた日本人

(第48回)「はやぶさ2」の快挙に思う、幕末に訪米した侍の志

(第49回)江戸で流行のコレラから民を守ったヤマサ醤油七代目

(第50回)渋沢栄一と上野に散った彰義隊、その意外な関係

(第51回)今年も東大合格首位の開成、富士市と協定結んだ理由

(第52回)幕末に初めて蛇口をひねった日本人、驚きつつも記した冷静な分析

(第53回)大河『青天を衝け』が描き切れなかった「天狗党」征伐の悲劇

(第54回)『青天を衝け』に登場の英公使パークス、七尾でも開港迫っていた

(第55回)「開成」創立者・佐野鼎の顕彰碑が富士市に建立

(第56回)「餅は最上の保存食」幕末、黒船の甲板で餅を焼いた日本人がいた

(第57回)遣欧使節の福沢諭吉や佐野鼎にシンガポールで教育の重要性説いた漂流日本人

(第58回)東郷平八郎が「日露戦争の勝利は幕臣・小栗上野介のお陰」と感謝した理由

(第59回)水害多発地域で必須の和算、開成学園創立者・佐野鼎も学んで磨いた理系の素養

(第60回)暴れ川・富士川に残る「人柱伝説」と暗闇に投げ松明が舞う「かりがね祭り」

(第61回) 横須賀基地に残る幕臣・小栗忠順の巨大な功績、なのに最期は悲劇的な死が

(第62回) 消息がつかめなかった「開成の創始者」佐野鼎の“ひ孫”とついに遭遇