ジャーナリスト・ノンフィクション作家 柳原三佳オフィシャルサイトHP

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上野に散った「彰義隊」、武士の最上級エリート集団だった彼らや遺族の手紙が大量発見、時を越えた官軍史観への異議

『開成を作った男、佐野鼎』を辿る旅(第71回)

2025.5.14(水)

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上野に散った「彰義隊」、武士の最上級エリート集団だった彼らや遺族の手紙が大量発見、時を越えた官軍史観への異議

開成学園の創始者であり、万延元年遣米使節、文久遣欧使節の随員として幕末に地球を2周した佐野鼎(かなえ)の足跡を、傍系子孫のノンフィクション作家・柳原三佳氏が辿る本連載。第71回のテーマは、慶応4(1868)年5月15日、現在の上野公園で散った「彰義隊」。最近になって大量に発見された元隊士や遺族の手紙を翻刻し、真実の検証を続ける遣米使節子孫の活動を取り上げる。

戊辰戦争の天王山「上野戦争」

 ここ最近、パンダに関する話題をよく耳にします。

 現在、日本には6頭のパンダがいるのですが、そのうち、和歌山のアドベンチャーワールドにいる4頭が、来月までに中国へ帰ってしまうというのです。それだけではありません、来年の2月には、東京・上野動物園の双子パンダも返還期限を迎えるとのこと。今のうちに、お子さんやお孫さんを連れて会いに行かなければ、と思っている方も多いのではないでしょうか。

 上野動物園は明治15(1882)年に開園した、日本で最も古い動物園です。そして、この動物園のある「上野恩賜公園」は、その9年前、今から152年前の明治6(1873)年に、日本で初めて「公園」に指定されました。

 JR上野駅の西側に位置する公園の敷地は54ヘクタール。東京ドーム約11個分にあたります。その広大な敷地には、桜やイチョウ、クスノキなど多くの木が植えられ、不忍池や大噴水の他、美術館などの文化施設も数多く、年間を通して多くの人でにぎわっています。犬を連れた西郷隆盛の銅像も上野公園のシンボルとして有名ですね。

 では、この上野公園、明治初期に「公園」に指定される前は、どんな場所だったのかご存じでしょうか。

 実は江戸時代、ここは「寛永寺(かんえいじ)」というお寺の広大な境内でした。徳川将軍家の菩提寺ということもあり、大変な栄華を極めていたそうです。ところが幕末、この地において、幕府を支持する佐幕系の軍と薩摩・長州藩中心の新政府軍とによる熾烈な戦いが起こり、景色は一変します。1868年から1869年にかけ、京都から北海道までを戦場として戦いが繰り広げられた戊辰戦争の天王山ともいえる、「上野戦争」です。

上野は焼け野原に

 寛永寺のWEBサイト( 東叡山 寛永寺HP「折々の情報 |)には、『5月のおはなし~上野の戦争』と題して、以下のように綴られています。

<「上野の山で戦争があったんだよ」……先日、社会科見学に来た地元の小学生にそうお話したところ、驚きの声が上がりました。戦ったのは上野の山に立てこもった彰義隊(しょうぎたい)と明治新政府軍。幕末の上野戦争は、寛永寺存亡の危機でありました。(中略)

 こうした彰義隊を明治新政府軍は「幕府の正規軍」と位置づけ、討伐にかかりました。戦いはわずか半日で明治新政府軍が勝利したのですが、戦いの中で寛永寺の建物は次々に焼けて失われていきました。また寛永寺は彰義隊をかくまったとしてすべての境内地が没収され、土地の大部分が後に上野公園となったのです。>

筆者注/「かくまった」というよりむしろスポンサーとして前面に出ていたというのが事実のようです)

現在の寛永寺

現在の寛永寺

 彰義隊(しょうぎたい)は、江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜の側近を中心とする旧幕臣と譜代の藩臣たちによって、慶応4(1868)年2月に立ち上げられました。隊士の数は総勢2000人弱でしたが、その目的は、新政府の西軍が、主君である将軍・慶喜に着せた「朝敵」(天皇、朝廷に敵対する勢力)という汚名をそそぎ、薩摩を討伐することでした。

 1868年5月15日、上野の山を拠点としていた彰義隊は、攻め込んできた1万人近い新政府軍(西軍)を迎え打ち、昼までは優勢でした。しかし、夕刻には砲弾が尽きて敗北。上野は一面焼け野原となり、退散を余儀なくされたのです。

 このとき、彰義隊の戦死者数は200名を超えていましたが、新政府軍は彼らを「反逆者」として扱い、多数の死体は見せしめのため、しばらく野ざらしにされたそうです。

上野戦争後、焼け野原になった寛永寺(不明Unknown author, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)

上野戦争後、焼け野原になった寛永寺(不明Unknown author, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)

 現在の緑豊かで文化的な上野公園の光景からは想像もつきませんが、157年前、「西軍の不義を正す」という志のもと結集した多くの若者たちが、この地で命を落としていたことも、また事実なのです。

逆賊などではなく最上級のエリート集団

 それにしても、死体をあえて野ざらしにされるとは……、敵とはいえ、同じ日本人でありながら、なんとも酷い仕打ちを受けたものです。彰義隊の若者たちは、それほど悪辣な「反逆者」だったのでしょうか。

 以下は、4年前に執筆した、本連載50回目の記事です。

(参考)『渋沢栄一と上野に散った彰義隊、その意外な関係  開成をつくった男、佐野鼎』を辿る旅(第50回)』(2021.2.20)

 上記記事の中で、私は、2020年10月に出版された『新彰義隊戦史』(大藏八郎著、勉誠出版)という書籍を紹介しました。

 本書は、今から約115年前、明治時代に弁護士をしていた山崎有信(やまざきありのぶ)という人物が、彰義隊の元隊士や遺族らに直接取材をしてまとめた『彰義隊戦史』をベースに、さらに新しい知見や200点余りの写真・図版を加えて再構成した700ページ近い大作です。

 実は、私は『開成をつくった男 佐野鼎』(講談社)を執筆するにあたり、山崎有信が大正15年に出版した『幕末血涙史』という書籍の希少な復刻版を入手していました。本書は、幕末から明治維新の時代を生きた主要人物や関係者への聞き書きなどで構成されているのですが、この中に、佐野鼎が十代の頃に学んでいた下曽根塾の恩師である下曽根信敦(金三郎)も含まれていたため、どうしても読みたいと思ったのです。

 著者の山崎有信は明治3年生まれ。ご本人は明治維新を体験してはいませんが、弁護士という仕事を持ちながら、よくぞここまで、当時を生きた人々の肉声や証言を残してくれたものだと、本書を読みながら感嘆するばかりでした。

「幕末血涙史」(山崎有信著)。当時の表紙の復刻

 「幕末血涙史」(山崎有信著)。当時の表紙の復刻

 そんな経緯もあって、山崎有信がまとめた著書の現代版が出版されたこと知った私は、ことさら感銘を受けることになりました。

 実際に、『新彰義隊戦史』を紐解くと、彰義隊は、血気盛んな若者が勢いのまま結集した「逆賊」などではなく、その実は大義を重んじる、武士階級の最上級エリート集団だったことがよく理解できます。

維新後になされた彰義隊の評価に異議

 ちなみに、令和版『新彰義隊戦史』の編著者である大藏八郎さんとは、「一般社団法人 万延元年遣米使節子孫の会」の活動を通して知り合いました。

 大藏さんの曽祖父の兄にあたる新井貢(あらいみつぐ)は1860年、31歳のとき、万延元年遣米使節の正使・新見正興の従者として太平洋を横断し、アメリカを訪れました。そのとき、私の傍系先祖である佐野鼎(さのかなえ)も、同じ米軍艦に乗って、約9カ月かけての地球一周をともに経験していたのです。

(参考)万延元年遣米使節団員名簿(一般社団法人 万延元年遣米使節子孫の会)

大藏さんの曽祖父の兄・新井貢

大藏さんの曽祖父の兄・新井貢

 大藏さんの曽祖父・大藏鼎(おおくらかなえ)は、慶喜の側近だった高橋泥舟(たかはしでいしゅう)と共に、維新後、現在の静岡県藤枝市に移住し苦労を重ね、最後には興津町(現静岡市)の町長を務めた人物です。その甥は西南戦争で討薩軍に参加したそうです。

 大藏さんが彰義隊に関心を持つようになったのは、彰義隊士の孫である作家・子母澤寛の作品を学生時代から愛読していたことがきっかけでした。その後、彰義隊墓所の墓守りをしていた小川家との縁が出来たことから、幕末維新史を研究し始め、明治維新以降の「彰義隊」に対する評価に、大きな疑問を感じるようになったといいます。

大藏八郎氏。2024年5月15日、上野公園で行われた彰義隊法要にて(筆者撮影)

大藏八郎氏。2024年5月15日、上野公園で行われた彰義隊法要にて(筆者撮影)

発見された彰義隊士やその関係者からの手紙

 今年も間もなく、5月15日が近づいてきました。そこで、その日を前に、大藏さんが新たに出版された彰義隊に関する書籍(2024年刊行)を紹介したいと思います。

 その名も、『彰義隊士の手紙 続「彰義隊戦史」』(大藏八郎著/勉誠社)。本書はなんと、937ページ+索引という、前作を上回る超大作です。

『彰義隊士の手紙: 続「新彰義隊戦史」』(大藏八郎著、勉誠社)

『彰義隊士の手紙: 続「新彰義隊戦史」』(大藏八郎著、勉誠社)

 ではなぜ、前作『新彰義隊戦史』が出版されてからわずか3年後に、この書籍の出版に至ったのか……。

 その理由は、『彰義隊戦史』の著者・山崎有信氏の子孫宅から、元彰義隊士や遺族らが山崎氏に宛てた約100年前の手紙やはがきが、保管されていた段ボール箱の中から大量に発見されるという出来事があったからです。

 百通を超えるその手紙には、10代、20代という若さで散っていった隊士らの履歴や家族の思い、知人の証言など、これまで表には出なかったさまざまな真実が切々と綴られていたのです。

 こうした未公開の貴重な手紙を子孫から託された大藏さんは、同志の協力を得て翻刻作業をおこない、解説文の作成に取り組みました。毛筆の流れるような書体も多く、それらを読み解くには大変なご苦心があったとのことですが、こうした経緯から、新たに『彰義隊士の手紙』という珠玉の一冊が生み出されたというわけなのです。

大藏氏と発見された山崎有信氏宛ての大量の手紙

大藏氏と発見された山崎有信氏宛ての大量の手紙

書籍に収録後、これらは東大史料編纂所に寄贈されたという

書籍に収録後、これらは東大史料編纂所に寄贈されたという

 この本の原稿を読ませていただいたとき、私は心を大きく揺さぶられました。そして、僭越ながら、本書の序章にこう書かせていただきました。

<本書に収められた百通を数える遺族や関係者からの肉筆の手紙は、時を超え、圧倒的な迫力で現代を生きる私たちの心を震わせます。と同時に、その行間からにじみ出る深い追悼の思いや苦悩、悲しみ、まっすぐな正義感や忠誠心は、見る者の胸を打ちます。

 また、洗練された見事な筆致は、芸術作品としても大変な見応えがあります。現代人にはとても真似のできない美しい筆文字とその文面に顕れる教養の高さに、私は思わず引き込まれました。(中略)

 百年前に出版された『彰義隊戦史』、その著者である山崎有信氏のもとに寄せられた切実な手紙の数々、そこに込められた思いが、大正、昭和、平成を経て、令和の今の世に蘇ったことは、まさに奇跡と言わざるをえません。これらが丁寧に翻刻され、現代人にも読めるよう詳細にかみ砕いて解説されなければ、おそらく永久に日の目を見ることはなかったでしょう。

 この貴重な記録は、彰義隊のみならず、明治維新の真実を伝える第一級の史料として、確実に後世に継承されていくに違いありません>

 900ページを超える大作の内容をここで簡単にまとめることはできませんが、本書では、元彰義隊士や遺族の手紙だけでなく、榎本武揚、戦友だった新選組の近藤勇、土方歳三、上野戦争で敵方だった西郷隆盛、江藤新平らの書簡も読み解いています。さらに、付録として、徳川慶喜の警護をつとめていた丸毛利恒(まるもとしつね)の漢詩12編、彰義隊に関わる諸名士の漢詩文17編を書き下し、現代語訳して解説することで、現代によみがえらせました。

『彰義隊士の手紙』には榎本武揚の手紙を掲載したページも

『彰義隊士の手紙』には榎本武揚の手紙を掲載したページも

 また、彰義隊士を主人公とする大藏さんの創作や、司馬遼太郎が著した「彰義隊胸算用」への批判も収録されており、大変興味深い内容となっています。

官軍史観と佐幕史観

 彰義隊士の墓は現在、上野公園の西郷隆盛像の後方にひっそりと佇んでいます。

 これは、彰義隊の生き残りの元隊士たちが、明治7(1874)年に政府の許可を得た後、資金調達などに7年の歳月を費やし、明治14(1881)年に建立したものです。墓碑には、江戸無血開城で活躍した山岡鉄舟の筆により「戦死之墓」と刻まれていますが、当時はまだ彰義隊を朝敵視する新政府をはばかっていたのでしょう、そこに「彰義隊」の文字はありません。

 この墓所では、今年も5月15日、13時から法要が営まれる予定です。

彰義隊の墓

彰義隊の墓

2024年の法要の様子

2024年の法要の様子

 彰義隊士たちの157回目の命日を前に、大藏さんはこう語ります。

「彰義隊は明治期のマスメディアで『幕末の花』と謳われながら、大正以降、長きにわたり、幕末維新史の闇に葬り去られました。しかし、本来、彰義隊の上野戦争を抜きに幕末維新を語ることはできません。

 再来年のNHK大河は小栗忠順(おくりただまさ)が主人公ですが、実は当初、彰義隊は小栗をトップに推載しようとしていました。そうした事実からも、薩長を逆に賊軍とみる佐幕史観が全国に普及し、その流れで、彰義隊も復権を遂げるのではないかと期待しています」

 上野公園に足を運ばれたら、動物園や博物館だけでなく、ぜひ一度、彰義隊の墓を探してみていただきたいと思います。

『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著、講談社)

『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著、講談社)

 

【連載】

(第1回)昔は男女共学だった開成高校、知られざる設立物語

(第2回)NHK『いだてん』も妄信、勝海舟の「咸臨丸神話」

(第3回)子孫が米国で痛感、幕末「遣米使節団」の偉業

(第4回)今年も東大合格者数首位の開成、創始者もすごかった

(第5回)米国で博物館初体験、遣米使節が驚いた「人の干物」

(第6回)孝明天皇は6度も改元、幕末動乱期の「元号」事情

(第7回)日米友好の象徴「ワシントンの桜」、もう一つの物語

(第8回)佐野鼎も嫌気がさした? 長州閥の利益誘導体質

(第9回)日本初の「株式会社」、誰がつくった?

(第10回)幕末のサムライ、ハワイで初めて「馬車」を見る

(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!

(第12回)幕末の「ハワイレポート」、検証したら完璧だった

(第13回)NHKが「誤解与えた」咸臨丸神話、その後の顛末

(第14回)151年前の冤罪事件、小栗上野介・終焉の地訪問記

(第15回)加賀藩の採用候補に挙がっていた佐野鼎と大村益次郎

(第16回)幕末の武士が灼熱のパナマで知った氷入り葡萄酒の味

(第17回)遣米使節団に随行、俳人・加藤素毛が現地で詠んだ句

(第18回)江戸時代のパワハラ、下級従者が残した上司批判文

(第19回)「勝海舟記念館」開館! 日記に残る佐野と勝の接点

(第20回)米国女性から苦情!? 咸臨丸が用意した即席野外風呂

(第21回)江戸時代の算学は過酷な自然災害との格闘で発達した

(第22回)「小判流出を止めよ」、幕府が遣米使節に下した密命

(第23回)幕末、武士はいかにして英語をマスターしたのか?

(第24回)幕末に水洗トイレ初体験!驚き綴ったサムライの日記

(第25回)天狗党に武士の情けをかけた佐野鼎とひとつの「謎」

(第26回)幕末、アメリカの障害者教育に心打たれた日本人

(第27回)日本人の大航海、160年前の咸臨丸から始まった

(第28回)幕末、遣米使節が視察した東大設立の原点

(第29回)明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック

(第30回)幕末の侍が経験した「病と隣り合わせ」の決死の船旅

(第31回)幕末、感染症に「隔離」政策で挑んだ医師・関寛斎

(第32回)「黄熱病」の死体を運び続けたアメリカの大富豪

(第33回)幕末の日本も経験した「大地震後のパンデミック」

(第34回)コロナ対策に尽力「理化学研究所」と佐野鼎の接点

(第35回)セントラル・パークの「野戦病院化」を予測した武士

(第36回)愛息に種痘を試し、感染症から藩民救った幕末の医師

(第37回)感染症が猛威振るったハワイで患者に人生捧げた神父

(第38回)伝染病対策の原点、明治初期の「コレラ感染届出書」

(第39回)幕末の武士が米国で目撃した「空を飛ぶ船」の報告記

(第40回)幕末の裏面史で活躍、名も無き漂流民「音吉」の生涯

(第41回)井伊直弼ではなかった!開国を断行した人物

(第42回)ツナミの語源は津波、ならタイフーンの語源は台風?

(第43回)幕末のベストセラー『旅行用心集』、その衝撃の中身

(第44回)幕末、米大統領に会い初めて「選挙」を知った侍たち

(第45回)「鉄道の日」に紐解く、幕末に鉄道体験した侍の日記

(第46回)アメリカ大統領に初めて謁見した日本人は誰か

(第47回)江戸末期、米国で初めて将棋を指してみせた日本人

(第48回)「はやぶさ2」の快挙に思う、幕末に訪米した侍の志

(第49回)江戸で流行のコレラから民を守ったヤマサ醤油七代目

(第50回)渋沢栄一と上野に散った彰義隊、その意外な関係

(第51回)今年も東大合格首位の開成、富士市と協定結んだ理由

(第52回)幕末に初めて蛇口をひねった日本人、驚きつつも記した冷静な分析

(第53回)大河『青天を衝け』が描き切れなかった「天狗党」征伐の悲劇

(第54回)『青天を衝け』に登場の英公使パークス、七尾でも開港迫っていた

(第55回)「開成」創立者・佐野鼎の顕彰碑が富士市に建立

(第56回)「餅は最上の保存食」幕末、黒船の甲板で餅を焼いた日本人がいた

(第57回)遣欧使節の福沢諭吉や佐野鼎にシンガポールで教育の重要性説いた漂流日本人

(第58回)東郷平八郎が「日露戦争の勝利は幕臣・小栗上野介のお陰」と感謝した理由

(第59回)水害多発地域で必須の和算、開成学園創立者・佐野鼎も学んで磨いた理系の素養

(第60回)暴れ川・富士川に残る「人柱伝説」と暗闇に投げ松明が舞う「かりがね祭り」

(第61回) 横須賀基地に残る幕臣・小栗忠順の巨大な功績、なのに最期は悲劇的な死が

(第62回) 消息がつかめなかった「開成の創始者」佐野鼎の“ひ孫”とついに遭遇

(第63回) 50万人の群衆!164年前の米国人が熱狂、訪米した「サムライ」の歓迎特大パレード

(第64回) パリでナポレオン3世に謁見した幕末のサムライたち、なぜ正装で臨まなかったか

(第65回) 幕末に米軍艦でアメリカを目指したサムライたち、洋上で目撃した「オーロラ」をどう記録したか

(第66回) 幕末に渡米したサムライが書いた、異国の鉄道についてのイラスト入り詳細レポート

(第67回) 164年前、日本人として初めてアメリカ大統領に会ったサムライたちは「外交贈答品」として何を選んだか

(第68回) 直系子孫宅から佐野鼎の遺品が大量発見!中にはパリで撮った若き福澤諭吉の写真も、果たして2人の接点とは?

(第69回) 再来年のNHK大河の主人公・小栗上野介、日米修好通商条約の批准書交換のための訪米時に帯びていた幕府の「密命」

(第70回) 大阪ベイエリア開発の先駆け、観光名所「天保山」を作ったのは幕末の遣米使節団のトップ新見正興の父だった