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ペリー来航で江戸防衛のため急遽築かれた「お台場」、品川沖を埋め立てる大工事をどうやって1年4カ月で実現させたか

『開成を作った男、佐野鼎』を辿る旅(第74回)

2025.12.10(水)

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ペリー来航で江戸防衛のため急遽築かれた「お台場」、品川沖を埋め立てる大工事をどうやって1年4カ月で実現させたか

 クリスマスシーズンが到来し、全国各地できらびやかなイルミネーションが輝きを放っています。中でも東京港区のお台場では、東京湾の夜景とレインボーブリッジを背景にした「お台場イルミネーション“YAKEI”」が冬季限定でバージョンアップ。海をイメージした「青」を取り入れ、さらに彩りを増しているようです。

 フジテレビの社屋が移転されてから四半世紀以上の歳月が流れ、大型商業施設やテーマパークが次々と誕生したお台場は、今や若者に大人気のスポットとなっています。

大砲の砲台があったから「お台場」

 さて、そんな「お台場」ですが、この地が170年前の江戸時代からこの名称で呼ばれているということは、現代の若者にはあまり知られていないのではないでしょうか。

「台場」とは、そもそも大砲を設置する「砲台」が備えられた場所のこと。それが幕府(将軍直轄)によって築造されたものだったため、当時は敬意をこめて「御」がつけられ、「御台場(おだいば)」と呼ばれるようになったのです。

 実は、レインボーブリッジの下に今も残る台場の築造には、本連載の主人公である「開成をつくった男 佐野鼎(かなえ)」と親交の深かった優秀なサムライたちが、複数かかわっていました。彼らは品川沖に台場を完成させた後、万延元年遣米使節(1860年)や文久遣欧使節(1861~62年)の一員として、世界各国を訪れていたのです。

レインボーブリッジの真下に位置する第三台場(筆者撮影)

レインボーブリッジの真下に位置する第三台場(筆者撮影)

 当時はクレーンなどの重機はもちろん、土砂や石を運ぶ作業船も、ダンプもない時代。工事はすべて「人力」で行われました。それでも、1年半足らずの間に、海の上に複数の砲台を竣工させたというのですから、その技術力の高さにはただただ驚くばかりです。いったいどうやって海中に基礎を打ち、石垣を積み、あのような大工事を成し遂げたのでしょうか。

 そこで今回は、お台場研究で著名な品川区立品川歴史館の冨川武史学芸員の解説をもとに、まさに「幕末の巨大プロジェクト」ともいえる品川御台場築造の経緯と、この大事業にかかわった幕末の頭脳集団について振り返ってみたいと思います。

11月1日、「一般社団法人 万延元年遣米使節子孫の会」は、設立15周年を記念し、冨川武史氏による講演『品川の海に御台場ができるまで~普請に関わった遣米使節団員たちを中心に~』を開催した(筆者撮影)

11月1日、「一般社団法人 万延元年遣米使節子孫の会」は、設立15周年を記念し、冨川武史氏による講演『品川の海に御台場ができるまで~普請に関わった遣米使節団員たちを中心に~』を開催した(筆者撮影)

ペリーが日本を離れた6日後には東京湾を見分、2カ月後には着工

 お台場築造のきっかけは、1853年6月3日、アメリカのペリー率いる軍艦、いわゆる「黒船」が来航したことにはじまります。度重なる江戸湾への外国船の襲来を脅威に感じていた幕府は、彼らが江戸湾の奥まで侵入してくるのを防ぐため、急きょ、品川沖に大砲を備える砲台(台場)を築く必要に迫られたのです。

 ペリー艦隊は日本に来航してから9日後の6月12日に退去したのですが、幕府はそれからわずか6日後の6月18日、すでに江戸湾海防見分を実施していました。いかに外国船への対策を急いでいたかがわかります。

 当時の江戸湾には、大川(今の隅田川)、中川などから流れ出た土砂が堆積した砂州があり、砂州と砂州の間に谷状の地形ができていました。幕府はその砂州の突端に台場を築くべく、同年8月には着工していたのです。

当時のお台場(冨川武史氏の講演配布資料より)

当時のお台場(冨川武史氏の講演配布資料より)

現在のお台場。第三台場(現在の「台場公園」)と第六台場だけが残っている

 工事は海を埋め立てて人工島を作るところから始まりました。冨川氏はその工法についてこう解説します。

「まず、横須賀や横浜で採掘した土丹岩(どたんがん)という粘土質の岩を船で運び、満潮時の海面より高く積み上げて、その内側を埋め立てて島を作りました。次に石垣の重さに耐えられるよう、湿気に強い杉や松の木を加工した長い杭を地中に打ち込み、その上に土台を組んで石垣を作っていくのです。その工法は、基本的に江戸城築城時と同じでした」

品川区立品川歴史館展示されているお台場築造模型(筆者撮影)

品川区立品川歴史館展示されているお台場築造模型(筆者撮影)

 埋め立てが完了し、島がつくられた後は、埋めた土が雨風で流されないよう表面に芝生が敷き詰められ、その上に江戸や佐賀などで製造された最新型の大砲が設えられました。それぞれの台場では24時間体制で海上の警備が続けられたそうですが、この場所で軍事演習は行われたものの、幕府の厳命によって実際の軍事行動は一切行われなかったそうです。

大砲が設置された台場の模型=品川区立品川歴史館

大砲が設置された台場の模型=品川区立品川歴史館(筆者撮影)

 結果的に、品川沖に6基の台場が完成するまでに、約1年4カ月(1853年8月~1854年12月)が費やされました。完成した台場の総面積は4万7669坪(157.583.47平米)、東京ドーム3.4個分の広さでした。

 気になる総工費は、約96万両。1両を10万円で計算した場合、約960億円という莫大な経費が投じられたそうです。

台場築造を指揮した幕府のエリートたち

 では、幕末にこのような大事業に携わったのは、どのような人物だったのでしょうか。

 冨川氏の調査によれば、品川台場の「普請(=工事)」を現場で指揮した「御台場掛役人」の中には、万延元年遣米使節にゆかりのある人物が3名いたそうです。

●小田切清十郎為行(徒目付/万延元年遣米使節に参加した幕臣・日高圭三郎為善の実父)

●益頭駿次郎尚俊(普請役/当時33歳/万延元年遣米使節、文久遣欧使節に参加)

●栗嶋彦四郎(小人目付/のちに彦八郎と改名/当時42歳/万延元年遣米使節に参加)

 ちなみに、佐野鼎は遣米使節で渡米した際、上記、益頭駿次郎の従者という立場でしたので、特に深い関係だったと思われます。

 また、品川台場築造に関しては、老中・阿部正弘が普請を命じてからの約1年間にわたって、『内海御台場築立御普請御用中日記』(通称・高松日記)という大変詳細な記録を残した人物がいました。

 幕府の小人目付(こびとめつけ)という役職についていた幕臣・高松彦三郎(1818~63)です。当時35歳だった高松彦三郎は、佐野鼎と同じく長崎海軍伝習所出身で、蘭学や航海術など、当時最先端の知識を身に着けていたと思われます。

 品川歴史館発行の『品川の海に御台場ができるまで-日記でひも解く170年前の大工事-』によると、台場築造の進行役を担っていた高松の日記には、1本4間半(約8.1メートル)の杭打ち作業は、30人掛かりだったことが記されているそうです。杭1本打ち込むのにも、人力では大変な作業だったのですね。こうした作業に関わった人々は、品川周辺の寺社を宿舎として単身赴任で泊まり込み、干潮時を見計らって現場へ出向いていたそうです。

 台場築造の任務を遂行した高松は、その後、文久遣欧使節にも抜擢され、佐野鼎、益頭駿次郎、福澤諭吉らとともに欧州各国を訪れました。帰国後は金10両(約100万円)を褒美として受け取りましたが、帰国の翌年、44歳で亡くなったそうです。

 海外列強の侵略から日本を守るため、台場の築造に心血を注いだ優秀な幕臣たち。そのわずか数年後、自分たちが外国から迎えに来た軍艦に乗って地球を一周することになろうとは、想像もしていなかったのではないでしょうか。

 ちなみに、万延元年遣米使節を迎えに来たアメリカの軍艦・ポーハタン号、文久遣欧使節を迎えに来たイギリスのオーディン号は、彼らが築いた品川台場のすぐ近くに停泊していたとみられます。外国の巨大な軍艦に乗り込んだ彼らは、その甲板から自分たちが築造に関わった台場を見て、何を感じたでしょうか。

第三台場は現在の「台場公園」に

 1854年に完成した6基の台場のうち、第一台場と第五台場は、東京港拡張のため「品川ふ頭」の下に埋没。第二台場は航路と重なるため撤去。第四台場は現在の天王洲アイルに石垣などわずかな名残をみることができます。

 第三台場、第六台場の2基については、今も国指定の史跡として当時のまま残されています。第六台場は無人島で入ることができませんが、第三台場のほうは公園になっており、砲台も復元され、当時の姿を偲びながら散策することができます。

第三台場。現在は「台場公園」として開放されている(写真:共同通信社)

第三台場。現在は「台場公園」として開放されている(写真:共同通信社)

第六台場。こちらは無人島となっている(写真:Koutaro Makioka/a.collectionRF/アマナイメージズ/共同通信イメージズ)

第六台場。こちらは無人島となっている(写真:Koutaro Makioka/a.collectionRF/アマナイメージズ/共同通信イメージズ)

(参考)台場の歴史|お台場海浜公園&台場公園|海上公園なび

 品川台場については、昨年リニューアルしたばかりの品川歴史館に、当時の築造の状況を再現した精巧なミニチュア模型が展示されており、この大事業に関わった人々の、いまにも動き出しそうなリアルな様子を目で見て学ぶことができます。また、台場の展示コーナーの向かい側には、品川沖から出港した万延元年遣米使節に関する展示コーナーもありますので、ぜひご覧ください。

(外部リンク)品川区立 品川歴史館

 お台場の美しいイルミネーションを満喫する前に、品川の海に眠る歴史と、この地で汗を流した若きサムライたちがいたことに、しばし思いを馳せていただければと思います。

『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著、講談社)

『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著、講談社)

 

【連載】

(第1回)昔は男女共学だった開成高校、知られざる設立物語

(第2回)NHK『いだてん』も妄信、勝海舟の「咸臨丸神話」

(第3回)子孫が米国で痛感、幕末「遣米使節団」の偉業

(第4回)今年も東大合格者数首位の開成、創始者もすごかった

(第5回)米国で博物館初体験、遣米使節が驚いた「人の干物」

(第6回)孝明天皇は6度も改元、幕末動乱期の「元号」事情

(第7回)日米友好の象徴「ワシントンの桜」、もう一つの物語

(第8回)佐野鼎も嫌気がさした? 長州閥の利益誘導体質

(第9回)日本初の「株式会社」、誰がつくった?

(第10回)幕末のサムライ、ハワイで初めて「馬車」を見る

(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!

(第12回)幕末の「ハワイレポート」、検証したら完璧だった

(第13回)NHKが「誤解与えた」咸臨丸神話、その後の顛末

(第14回)151年前の冤罪事件、小栗上野介・終焉の地訪問記

(第15回)加賀藩の採用候補に挙がっていた佐野鼎と大村益次郎

(第16回)幕末の武士が灼熱のパナマで知った氷入り葡萄酒の味

(第17回)遣米使節団に随行、俳人・加藤素毛が現地で詠んだ句

(第18回)江戸時代のパワハラ、下級従者が残した上司批判文

(第19回)「勝海舟記念館」開館! 日記に残る佐野と勝の接点

(第20回)米国女性から苦情!? 咸臨丸が用意した即席野外風呂

(第21回)江戸時代の算学は過酷な自然災害との格闘で発達した

(第22回)「小判流出を止めよ」、幕府が遣米使節に下した密命

(第23回)幕末、武士はいかにして英語をマスターしたのか?

(第24回)幕末に水洗トイレ初体験!驚き綴ったサムライの日記

(第25回)天狗党に武士の情けをかけた佐野鼎とひとつの「謎」

(第26回)幕末、アメリカの障害者教育に心打たれた日本人

(第27回)日本人の大航海、160年前の咸臨丸から始まった

(第28回)幕末、遣米使節が視察した東大設立の原点

(第29回)明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック

(第30回)幕末の侍が経験した「病と隣り合わせ」の決死の船旅

(第31回)幕末、感染症に「隔離」政策で挑んだ医師・関寛斎

(第32回)「黄熱病」の死体を運び続けたアメリカの大富豪

(第33回)幕末の日本も経験した「大地震後のパンデミック」

(第34回)コロナ対策に尽力「理化学研究所」と佐野鼎の接点

(第35回)セントラル・パークの「野戦病院化」を予測した武士

(第36回)愛息に種痘を試し、感染症から藩民救った幕末の医師

(第37回)感染症が猛威振るったハワイで患者に人生捧げた神父

(第38回)伝染病対策の原点、明治初期の「コレラ感染届出書」

(第39回)幕末の武士が米国で目撃した「空を飛ぶ船」の報告記

(第40回)幕末の裏面史で活躍、名も無き漂流民「音吉」の生涯

(第41回)井伊直弼ではなかった!開国を断行した人物

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(第45回)「鉄道の日」に紐解く、幕末に鉄道体験した侍の日記

(第46回)アメリカ大統領に初めて謁見した日本人は誰か

(第47回)江戸末期、米国で初めて将棋を指してみせた日本人

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(第53回)大河『青天を衝け』が描き切れなかった「天狗党」征伐の悲劇

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(第55回)「開成」創立者・佐野鼎の顕彰碑が富士市に建立

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